第1550話・波紋は広がる
Side:久遠一馬
寒天培地はさっそく前に実験をしたことのある学校で始めている。この時期は寒いので室温を一定に暖めないと菌類の繁殖は難しいからね。それと、やはり穢れの研究ということもある。きちんとした施設でするという前例が必要だ。
山科さんと丹波さんが毎日学校に行き、寒天培地で繫殖させている菌類を確認している。
もとになるものは不浄と言われている銅銭を使っていて、なにもしていない自然なままの銭・冷水で何度も洗った銭・火で炙った銭・アルコールで殺菌した銭の四種類を用意して、それぞれ培地に銭を置いて取り除いた後、菌類がどう繁殖するか確かめる。
すでに学校で何度か実験したものだし問題はないだろう。
あとアーシャたちと話したけど、菌類をすべて害悪だと決めつけないように、菌類には人の役に立つものがあることも教える予定だ。あまり神経質にならず奥が深いと理解してほしい。
「しかし拝謁する機会か」
「収まるところに収まったということでしょう」
尾張に残られた山科さんからは、これまでの蔵人とは真逆の要望が出ているからなぁ。慣例とか最低限でいいという感じだ。
「昼食会はいいかもしれないね。お酒を飲まないなら早く終わるから負担も少ない」
贅沢じゃなくていいとは言うけど、最低限のおもてなしは要るだろう。様子を見るためにまずは昼食会とか良さそう。短時間で解散出来るし。
「殿、山の村から報告の書状が届いております」
さて仕事となるけど、今日の最初は山の村の報告書か。炭焼き技術の伝授が順調に進んでいるというものだ。もうこれは領外に漏れてもいいと言ってある。
他所がそれで効率化するデメリットよりも森林資源の安定化のほうが重要だ。
竹林の整備と炭焼き技術の普及、これで燃料事情は史実よりもだいぶ改善されるだろう。あと今年の養蚕の報告もあるね。こちらもこの時代とは思えない質の生糸生産が可能になっている。
今後は桑の木を増やして生産を増やすことと、領内の他の場所でも養蚕を試みる段階だろう。甲斐の開発に間に合ったようだ。
次は美濃だろう。道三さんに手頃な場所を探してもらおう。
「殿、宇治山田の書状でございますが……」
ああ、蔵人で騒ぎになったけど、あっちも動いている。大湊の商人と織田の文官や商人が現地に入って具教さんの下で協力している。とにかく町としての機能が滞ることがないように動かす必要がある。
師走も近い。神宮が困るようなことになると北畠の面目に関わる。
「そうだ。大御所様に漬物をお届けしておかないと」
「すでに手配致しました」
北畠といえば、織田と斯波の最大の後援者と言っても過言ではない晴具さん。漬物がお好きなので贈り物というほど形式的でないものの、ちょくちょくお裾分けをしている。
そろそろ食べ頃の大根の漬物があるんだ。お届けしないと。
Side:朝倉宗滴
寒うなると痛いところが出てくる。歳を取ると珍しゅうないがの。
「難儀なことよの。天下を揺るがすほど力を持つということは」
院の蔵人らが都に戻されるという騒ぎはわしの耳にまで届いておる。
突き詰めると、いずれの者が悪いということではなかろう。朝廷と斯波、織田、ここの関わりと立場が定まっておらぬのだ。
「皆にご迷惑をお掛けしてしまいました」
「いや、慈母殿と子に罪はない。今を
内匠頭殿には武士とは異なる譲れぬものがある。面目ではないのだ。妻と子や家臣らがそれにあたる。さらに言うならば、これもまた日ノ本の現状を表す動き。力ある者と朝廷がいかに関わるか。
朝廷は武士から求め、その権威を利用せぬ者を相手にいかがするのかと思うておったが……。
「まあ、落としどころを得て良かったではないか。内匠頭殿や慈母殿がなんと言おうとも止まらぬ争いになることもあり得たからの」
最早、内匠頭殿は己と一族、家臣だけの身ではない。尾張を中心にした多くの者が内匠頭殿ならばと信じて動いておる。その者らが此度は抑えておったから良かったものの、ひとつ間違うと大戦となる。
「本当でございますわ」
越前はいかがなっておろうか。世の流れなど見ずに己に都合がいいことを考えておるのであろうな。朝廷ですら尾張を相手に譲った。この事実は果てしなく大きい。殿はお気づきになられるであろうか。
すでに北の蝦夷は久遠家が押さえておるのだ。日ノ本がひとつになるのは思うたより早いのかもしれぬ。
「宗滴さま! 学問をお教えくださいませ!」
「おお、そろそろかような刻限か。では慈母殿、わしは子らのところにゆく。体を
しばし慈母殿を見舞って茶を飲んでおったが、暇を持て余しておるくらいじゃ。安堵したわ。
あれこれと悩み気にしても、わしには出来ることはない。いや、わしが動いてはならぬのだ。
せめて、子らに学問や武芸を教えてやりたい。次の世を生きる子らに、わしの積み重ねたものを残せるということは幸せなことじゃからの。
Side:斯波義信
「変えるということは難しゅうございます。若武衛様は内匠頭殿と共におるので、あまりお分かりにならぬのかもしれませぬがな」
菊丸殿と手合わせをして一息つくと、院の話となった。家中は蔵人がおらなくなったことで今後いかになるのかと見守っておったが、慣例については最早細かく命じぬと内々に言われたことに驚き戸惑うておる。
そのことを漏らすとかような返事をされた。
「久遠の知恵か」
「変えるという慣例が久遠家の掟のようなものかと。恐ろしゅうございますなぁ。人は今あるものを変えることを恐れるというのに」
菊丸殿、いや上様のお立場からすると他人事ではなかったはずじゃがの。朝廷とこの程度の小競り合いはお覚悟があったとみえる。
「変えても怖いけど、変えなくても怖いものさ。知らないところがもっと変わっていたら、アタシたちなんて潰されちゃうからね。知恵もまたひとつの武器になるということさ」
ジュリア殿の申すことももっともだ。されど、何故かように上手く変えてゆけるのであろうか? 無論、久遠とて上手くいかぬことが幾つもあるのは承知しておるがの。
「武芸と同じということじゃの。兵法とて、いつまでも古きままでは使えぬ。今ならば鉄砲くらいは考えた兵法でなくばな」
「さすが先生。呑み込みが早いね」
より強く、上を目指すということか。塚原殿もまた同じと言えような。すでに隠居して穏やかな暮らしをしてもよいというのに、今も己の技と力を高めんと鍛練を怠っておらぬ。
とはいえ、我らは最早、引けなくなったということ。
わしが皆を率いて朝廷と対峙せずに済んだこと、安堵しておるのが本音じゃ。父上は当然ながら一馬がおって弾正がおる。さらには上様や塚原殿、ジュリア殿もな。
「いずれの者もひとりでなにかを成せぬのかもしれぬの」
わしはあまり出来のいい武士ではない。とはいえ久遠の知恵から学んだこともある。一番は、人はひとりでは生きられぬということかの。
雲の上のお方である上様から市井の民まで。皆が力を合わせてこそ今の尾張がある。
されどな。それを成したのは一馬に他ならぬ。
どこまでも大きゅうなるの。一馬は。
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