第1510話・かつての日々を思う
Side:久遠一馬
九月に入り、収穫の秋だ。当たり前のように毎年一定収量の米が得られていた元の世界が懐かしい。
オレたちが持ち込んだ南蛮米は、冷害や病害虫に強く収量も多く安定した品種であるものの、水害や日照りなどの影響はある。灌漑設備が未熟なので長雨や台風の影響が少なからずあるんだよね。
まあ、それでも農業改革と合わせると明らかに収量が違うので、作付面積を増やせば増やすだけ収量は増えるんだけど。
「殿、信濃からでございます」
資清さんがウルザからの書状を持ってきた。
村上との全面対決は避けられたようだ。砥石城周辺とそこから東にある旧真田領あたりは織田で治めることになり、西側にある塩田城周辺は村上が古くから治めている地らしく、そのまま村上で治めることになったそうだ。
西側も小競り合いをした地域でもあるが、損害の弁済で話が付いた。砥石城と東側は元海野一族の領地なので村上としても拘る理由がなかったのだろう。
「エル、どうかな?」
「落としどころでしょうね。
ただ、ウルザが村上義清と話をして今後の統治と関係に少し踏み込んだみたい。村上方が砥石城を放棄したこともあり、幾つかの戦略物資の値下げをしたいと書かれている。
他にも今後は意思疎通をすることを確認したそうだ。村上がだいぶ妥協したようだね。
他家に対して値下げばかりだと困るんだけど、塩なんかは生死に関わるからなぁ。ただ、これの難しいところは、日本海側から購入している品をこちらが提供すると当然日本海側の品が売れなくなることだろう。
ただまあ、それでも物価の違いから戦となるよりはいいと考えるしかないだろうね。こういう他国の商いとの軋轢は今に始まったことじゃないけど。
「砥石城か。武田方だった者たちが驚くだろうね」
そもそもこちらは城を基準に考えていないんだよね。今ある城を活用することはするけど、城を守って領地を維持するという考え方をしていない。
城や砦という意味では、北美濃の対朝倉の拠点は多少整備したけど、あとはどこも既存の城の修復と現状維持くらいで不要な城は破却している。三河なんてこちらへの寝返りが多かったこともあり、防衛拠点がコロコロ変わるのでお金をかけて整備するのが間に合わなかったくらいだ。
「甲斐にいる独立勢力には影響があると思われます。ただ……」
ああ、穴山と小山田を筆頭にした国人領主が残っているんだったね。エルも言葉を濁した。申し訳ないけど、こちらとしてはどちらでもいいというのが本音だろうね。厚遇してやる義理もないが冷遇するほどでもない。
しかし意外だなぁ。村上。招きに応じてやってきた使者は花火大会が終わってさっさと帰ったと思ったら。いざとなった時は柔軟に動くなんて。当主と家臣の違いなんだろうね。
「甲斐はいいよ。こちらとしては駿河と遠江が落ち着けばどうとでもなる」
駿河と遠江には多少ごねているところもあるが、秋の収穫が終わったし年内に一通り纏まるだろう。今川としてもここで手こずると、織田家中に対して今川の印象を悪くすることもあって、頑張っているようだし。
寺社や商人も、ごねたところで何も変わらないと理解しただろう。食い扶持を奪うことはしないけど、こちらの利を分け与えるのは数年ほど控えるつもりだ。
「検地と人口を調べるのでこちらは忙しゅうございますから…」
資清さんが苦笑いを浮かべた。織田は甲斐の独立勢力の心配をしている余裕はないと言った方が適切だろう。検地と人口調査がまあ大変なんだ。駿河・遠江・甲斐・信濃と新領地が一気に増えたからね。
村単位で抵抗したり隠し田をそのまま隠匿しようとするなんて可愛いもので、検地で隠し田が見つかるなど実情が判明すると、元領主が怒ったりする場合もある。
放っておくと争いになるので仲裁する場合もあったりして、苦労が多いという報告があるんだ。
「田畑は春までに南蛮米や銭になる作物を植えるところの選定もいるしなぁ。春までにやることが多いんだよね」
農作物はなるべく早く増産したい。また産業になるようなことや売れる品物も育てる必要がある。正直、尾張から東はそこまで国力がある土地じゃないところも多いからな。治水や土壌改良、街道整備をすると変わるんだけど、それも費用対効果など検討しながらやっている。
ともあれ、信濃が泥沼にならなくて良かったよ。
Side:武田晴信
「あの城が一日と保たずか」
今でも忘れぬ。砥石城に手間取り、村上にしてやられた日のことは。あれさえなければと幾度思うたことか。
分かっておったことだ。織田は今までの戦では世が治まらぬと考えたが故に変えた。とはいえ、この知らせには少し思うところがあるわ。
「差配したのは夜の方殿とか。あの地故に、内匠頭殿も奥方を出しておるのでございましょうな」
典厩の言葉にさもありなんと思う。面倒な地なのは承知ということであろうな。されど……。
「あの御仁は今までの戦では勝ちきれぬと考えたのであろう。城を取ったり取られたり。それで広がる所領など高が知れておる」
役目もあり、幾度か会うて話をした。わしなどでは及ばぬ男であることに相違ない。ただ、左様な御仁とてあれこれと悩み試しておる。先例に囚われぬ。やろうと思うてもなかなか出来ることではない。
「穴山と小山田はこれをいかに受け止めるのか」
典厩はわしの顔を見て伺うようにそう言うた。わしと典厩の仲だ。遠慮などせずともよいものを。こやつはそういう気遣いをする。
「降るしかあるまい。こちらにな。臣従すると頭を下げるなら許す。根切りにするわけにもいかぬのだ。仕方なかろう」
思うところはある。されど許さねばなるまい。血縁もあることだしな。それにあの貧しき甲斐での戦など織田は望んでおらぬ。
意地を張っても来年の秋までは保つまい。下手な騒ぎを起こせば砥石城の二の舞いだ。さらに所領では様々な品の値からして民の暮らしが違い過ぎる。
「兄上……」
「これで良かったのやもしれぬ。あの者らのおかげで、わしは甲斐守護を捨てる覚悟が出来た。あのまま身動きが取れず戦になっておれば、いかがなっておったことやら」
わしを苦しめた砥石城の陥落と村上の動き。あれを見てわしは改めて理解した。守護としての甲斐武田家は終わったのだと。
いや、武田家を存続させる形で終わらせることが出来たのだとな。
織田家家臣でよい。いずれにせよ、わしは甲斐一国を治めきれぬ程度の器でしかなかったのだ。そう考えると、今の状況は悪うない。
織田の治世で武田家を残し、卑怯者という汚名を僅かでもそそがねばならぬ。
過ぎ去りし日を懐かしむのはいずれ隠居してからでよい。
今は働かねばならぬ。
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