第1490話・見えざる苦労
Side:久遠一馬
暦は八月。ここ数日、朝晩は涼しくなってきた。夏も終わりが近い。
そんなこの日、輿を中心とした行列が久しぶりに清洲城から出ている。上皇陛下が学校と病院を御見分されるため、お出ましになったんだ。
「何事も経験だね」
オレは直接交渉をしていないが、例によって慣例重視の側近がいて大変だったようだ。ただ、それでも上皇陛下が学校と病院をご覧になりたいということで実現した。
穢れとなるべきものを排除することや、あれこれと注文が多かったけどね。こちらとしてはこれをきっかけに病院と学校の体制と現状を、改めてみんなで考えるきっかけとなった。
まず病院の方は、穢れを避けるという意味で、数日前から上皇陛下がご覧になるところは穢れの生じない状態にしろ、病の者はすべて別の場所に移せ、という注文が付いていて、当日いる医師なども一定期間穢れに触れてない者を用意しろと言われたらしい。
学校のほうは、礼儀作法が出来ぬ者は見苦しいので、子供や学徒がいない状態にしろと言われたようだ。
結果として、数日前から病院の機能を一部だが那古野城に移してある。これは信長さんの判断だ。現在、政務は清洲城で一元化していることで、那古野城に余裕があったこともある。
「そろそろ次を考えるのは良いことだと思う」
医師に関しては、ケティが産休中で穢れに触れていないということで説明のために来ている。今はそんなケティと上皇陛下の到着を待っているんだ。
そんな今回の上皇陛下の側近との交渉の過程で明らかとなったのは、病院が唯一無二の存在であり、いざ代わりの施設をと考えてもすぐに見つからないことだった。
無論、一部の寺院では場所を貸してくれるという話もあった。ただし、すでにこの時代の医学を超える外科治療もしている病院の代わりを寺院でするということは、臨時や緊急としてはいいものの、いざやると考えると課題が多いことが明らかとなっている。
さらに現在、病院はすでに最初に建てた建物の他に、別棟で長期入院施設やお産が出来る子供病棟などがある。それでも織田領が急速に拡大している現状では、すべてをここで受け入れるのは難しい段階だ。
まあ、敷地はまだまだ余裕を持たせたので改めて増築することは出来るものの、有事や災害を想定すると病院をどうするか。改めて考えるべきだという現状だ。
ちなみに美濃大垣や三河安祥城下など尾張・美濃・三河の主要な町には、病院としても使える公民館がある。ただしそれらは医師の巡回による診察と簡単な治療が目的であり、入院施設と常設の診療病院として建てたわけではない。
本格的な病院を増やしてはどうかという意見が織田家中で出ている。
ケティもそういう議論は賛成のようだ。ただし、医師と看護師の確保など課題もあるけどね。
やっと上皇陛下が到着された。近衛さんたちが京の都に戻って以来、会ったのは三度目になるか。一度は茶の湯の席で会って、もう一度は夕餉を一緒にした時だ。
こっちもそこまで暇じゃないのでご用命がない限りは顔を出さないんだけど、側近としては、それはそれで不満らしい。
近衛さんたちがかなり言い含めていたようで横柄な態度もないし、個人的な文句も言わないものの、斯波家も織田家も上皇陛下を中心として物事を考えないのがおかしいと思っているようだし、上皇陛下に纏わる要求時には、攻撃的な言動が現れる時があるとの報告がある。
ただ、毎晩宴なんてやっていられないし、上皇陛下も求めていると思えないんだよね。この辺りはよく知らないので推測でしかないけど。
加えて穢れを清洲城に持ち込むなとか細かい注文が多くて、織田家中では少し反感も買っている。お前たちは穢れていると言われているようで、不快だと感じた人がいたようなんだ。
まあ、京極さん曰く、公家と武士の関係なんてこんなものだから一々気にするなと言うと、皆さん表面上は納得していたけど。これはジワジワと腹の底に積もっていくやつだよなぁ。
表に出ないところだといろいろと揉めるんだそうだ。昔から。むしろ、朝廷が将軍や管領以外にこれほど気を使うことは珍しいとまで言われた。
斯波家と織田家、それとウチと朝廷の関係で、一番心を砕いて仲介しているのは京極さんと姉小路さんなんだよね。家中でもそれを理解しているから、彼らが言うと大きな反発はない。
それとオレも驚いたことは、京極さん。忙しいのにウチの風習とか掟を勉強しているんだ。オレやエルたちの誰かが交代で話し相手となっていろいろと教えている。価値観の違いからくる対立を避けたいと言われてね。
ほんと、頭が下がる思いだ。彼は織田家家臣であってウチの家臣じゃない。オレの面目やウチの掟なんて重視しなくてもいい家柄でもあるのにさ。
Side:京極高吉
なんとかこの日にこぎ着けたな。
近衛公が戻られたことで、わしと姉小路卿で動いてまとめねばならぬのだからな。上手く事が運んで良かったわ。
尾張と朝廷との橋渡しは難しい。この国は最早、畿内とは別の理で治めておる。帝や院を軽んじる気はないものの、我らが率先して深入りしたくないという本音もある。
もっと難しいのは久遠との橋渡しだがな。院は久遠の考えや習わしを曲げるのを望んでおられぬ。されど、側近らは慣例と異なると止めねばならぬ立場だ。
『院は内匠頭を天の御使いだと信じておられるようだ』と、近衛公が都に戻る前に密かに仰っておられた。決して口外するなとも言われたがな。内匠頭殿の重荷になることは近衛公も望んでおられぬ。
内匠頭殿は内匠頭殿で、院であっても自ら取り入ろうなどせぬ。あまり波風を立てることを好まず、自身が院に近くなると困ったことになると自覚があるので助かるが。
されど、ひとつ間違うと日ノ本を揺るがしかねぬような役目を、隠居した身で与えられるとはな。満足に戦も出来ぬ愚か者だと謗られて生涯を終えると思うたものを。
織田に仕えて以降、上様とお会いする機会も増えた。一度は隠居しろと突き放されたというのに、先月の近江へ戻られる際には『尾張を頼む』との直言まで頂いた。
最早、京極家の体裁を維持する家臣ですらもほとんどおらぬというのに、今でも俸禄と手当はことあるごとに増える。
家臣や兵を揃える必要もなければ、使い道があるわけではない。酒や食い物で多少贅沢したとて高が知れておるのだ。さらに久遠家と院の仲介もしておることで、内匠頭殿からは酒や外には売っておらぬ貴重な品が頻繁に届く。
もっともわしの現状を伝え聞いたのだろう。かつて京極家に仕えておった者らが召し抱えてほしいとやってくることが増えた。大殿の許しを得て、かような者らを少し召し抱えておるがな。
「これが……病院か」
明らかにお喜びの様子である院にわしも側近らも安堵する。あとは内匠頭殿と薬師殿を助けてやれば上手くいく。
「はい、当家の医術を施しておるところでございます」
院といい上様といい、この男はまことに天の御使いか? この乱世に何故、泰平の国を造れるのだ。
分からぬ。分からぬが、この男に傷をつけると天を怒らせるが如くに、日ノ本に良うないのは明らかか。
「病は日々の暮らしで防げるものもあります」
そのまま内匠頭殿と薬師殿の案内で病院内に入る。そういえば、この薬師殿には亡くなった三木が世話になったな。わしも幾度も見舞ったが、久遠の医術は明らかに日ノ本の医術より優れておった。
最期は光殿が看取ったものの、一度は死の淵から舞い戻らせ、辞世の言葉を親族に遺させたなど信じられぬほどよ。
改めて思う。今の朝廷と尾張との間には繋ぐ者が必要だと。この者らを決して日ノ本の敵にしてはならぬとな。
愚か者にもそれくらいは分かるのだ。
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