第1473話・御前海水浴・その四

Side:久遠一馬


 まさか上皇陛下が海に入られるとは……。何気に初めて参加した人で自ら海に入る人は珍しいんだよね。ただみそぎと呼ばれた神事しんじで、新しい神様を世に送り出したとする古事こじも、大和朝廷の正統性を喧伝けんでんする大事な要因よういんだ。どうしようかな?


 少し異様な雰囲気だとは言い過ぎだろうか。どうしていいか分からないというのが、周囲を含めた皆さんの本音だろう。


 とりあえず日頃からあまり動く御方ではないので、準備運動と海水に慣れるために徐々に海に浸かるようにお願いをした。


 なるべく普段通りに。それが上皇陛下の御意向であり、周囲の皆さんも動かれたからといって控えることはしていない。


 泳ぐというよりは海に浸かるというべきか。潮湯治のように陛下はしばらく海に入り、周囲の景色や人々を見ておられた。


 無論、不測の事態を想定して雷鳥水隊数人とオレは近くで待機していたが。やはり、この場は禊に結びつかない様にと、心を決めた。


「人は水に浮くのか?」


 陛下が少し驚かれたのは、仰向けに海に浮かぶようにしていた人を見た時だ。誰かと思ったらウチの金さんだわ。


「はい、重い鎧などを身に着けずに海や水に入ると、あのように浮くのでございます」


 海に身を任せて浮いている姿が衝撃だったようだ。この時代だと泳ぐのも戦うためだったりするので、ああして浮いているだけになるというのはご存知なかったのだろう。


「まことに塩辛いな」


 さらに陛下は自ら海水を指で僅かに舐めると、その味になんとも言えない顔をされる。


 吹き抜ける風も太陽も、陸上とは違って見えるのかもしれない。近衛さんたちとか、義統さん、姉小路さん、京極さんなども近くにいるが、皆さんも一緒に海に入りながらそんな陛下をじっと見ている。


 あまり口数が多くない陛下だけに、なにを思うのかは察するしかない。


 ただ、決して無駄ではなかったとは思う。




 そんな予期せぬ動きもあったが、お昼頃になるとそろそろお腹も空いてくる。織田家とウチの料理人の皆さんが昼食の支度をしているんだ。


 メニューは海鮮焼きそばと、魚介の潮汁などを用意してある。焼きそばはソースで味付けをしてあるものの、潮汁は塩味をベースにしている素朴な料理だ。元の世界だと炊き出しにでも使うような大鍋を幾つも使って、豪快に煮る。


 事前に相談もしてあるけどね。上皇陛下はこういう料理も召し上がったことがないと聞いたので、これにしたようだ。


 潮汁は丁寧な下処理をしていて清酒も入れてもいるので、魚臭さもない。あまり鮮魚を食べ慣れない人でも美味しく食べられるものになっている。


「おいしいね」


「うん、おいしい!」


 オレはエルたちとか孤児院の子供たちと一緒のお昼だ。たくさん動いてお腹ペコペコなんだろう。子供たちの食べっぷりを見ているだけで幸せになれる気がするほどだ。


 他家の武士の皆さんはだいぶ海水浴にも慣れたのだろう。砂浜に座って豪快に食べている人たちも多い。戦などでは野外で食べるので、こういう食事には慣れているのだろうけどね。


 ソースの焼ける香ばしい匂いと潮の香り。なんか夏の海だなと感じさせる。海鮮焼きそばは元の世界の海で食べる焼きそばというよりは、高級中華にあるような少しリッチな感じだけど。


 海老・いかは当然ながら、タコやハマグリなんかも入っている。野菜はモヤシと山菜が入っているけど、これもなかなかいいなぁ。


 スルスルと食べるとソースと魚介の旨味が口の中に広がる。


「ああ、いい具合に焼けてるね」


 あとデザートというわけではないが、今回みんなに配られるのは焼きとうもろこしだ。さすがに大人数に一度に配れるだけの数を揃えるのは大変なんだ。


「おいしい」


「ほんとだ! 甘い!!」


 ケティとパメラがその味に驚いた。これ実は知多半島産のスイートコーンだ。知多半島の織田領佐治家とともに生きる皆さんが頑張って育ててくれたものになる。醤油を塗って焼いたトウモロコシは甘しょっぱくて美味しい。


 お礼にお酒と甘味でも贈ろうかな。失敗やうまく育たないものもあったけど、こちらの想定以上に頑張って育ててくれた。


「みんな良く頑張ってくれたね」


「はい!」


 この成功は孤児院出身の家臣、オレの猶子と定める以前のあの子達の苦労と奮闘も語らねばなるまい。リリーたちに相談しながら知多半島と牧場を行き来して指導をしてくれたんだ。


 初めてのことなので全滅も覚悟していたんだけど。


 うーん。これだけ食べるとお腹いっぱいだ。




Side:近衛稙家


 汁は豪快に見えて臭みもない。麺は他では味わえぬタレが添えてある。さらに見たこともない『とうもろこし』なるものを焼き添えたものまである。


 尾張ではこの程度は驚くほどではないということか? 皆が同じものを食うておるのがその証か。


 院は海にけ入られ、浜を歩かれた。尾張者がなにをしておるのかと幾度かお尋ねになられ、その様子を楽しまれておられたな。


 左様に御自ら動かれたこともあろう。食が進んでおられるの。まことに喜ばしいことじゃ。


 ただ、浜を見ると羨ましいと思うてしまう。民から武士や僧侶にまで支えられ、一致結束して国を豊かにしようとしておるこの国が。


 内匠頭だけではないのだ。武衛や弾正どころか、北畠卿らにまでも、民が自ら駆け寄り楽しげに話す姿は驚きを通り越して信じられぬものがあった。


 畏れ多いと遠ざけ、声を掛けようものなら無礼者と突き放す吾らとはまるで違う。


 違うのだ。なにもかもが……。


 東国の者らにとって朝廷とは、吾ら公卿や公家とは、必ずしも喜ばしい相手ではない。聞き及んではおっても理解はしておらなんだ。鎌倉かそれ以前か。代々続くものであろうな。


 さらには尾張にて都や畿内を越える国が出来つつある。


 戦にならぬのは尾張者が畿内を求めておらぬからか。厄介者扱いとは、立場が逆になってしもうたの。


 さて、困ったことは内匠頭に縋る前に武衛を怒らせてしもうたことか。これでは動きようがないの。今、内匠頭に殊更ことさらなことを頼めばさらに怒らせるは必定。


 内匠頭はいささか甘い男であるが、武衛と弾正は決して甘くはない。なにも出来ぬようになってしもうた。


 院や帝の御為にも都と朝廷を良くしたかったのじゃが。畿内の諸勢力が黙っておらぬか。厄介なものよの。


 今思えば、公家衆をこれほど連れてくるなどせねば良かったわ。尾張を見せて少しばかり己が立場を理解させたのちに働かせるつもりが、思うた以上に愚か者が多かった。


 見たこともない馳走や酒で浮かれおって。尾張に来ぬかと誘われぬ時点で、己らなど要らぬと言われておるようなものと何故気付かぬ。


 図書寮という働き場を作るように図ってくれたことを感謝しておるのは、山科卿とわずかな者だけ。嘆かわしい限りじゃ。


 困ったことになったわ。仕切り直す必要があろうな。公卿らと話をして少し公家衆をいかにかせねばならぬ。あとは吾も尾張のために働かねばならぬな。


 まずは商いで尾張を利するように少し動くか。三好にももう少し力を貸してやらねばなるまい。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る