第1471話・御前海水浴・その二
Side:北条新九郎氏親(西堂丸)
ああ、懐かしい。かつて大叔父上と共に尾張に
あの時と変わったこともある。人が増えて武衛様や弾正様もまた自ら海を楽しんでおられるのが見える。
久遠殿はこの数年でさらに尾張を変えたのだと実感する。
「父上、我らも海に参りましょう」
「新九郎? いや、されどな……」
「海を楽しむのがこの海水浴の作法でございます。なにをしてもよいのです。皆、思い思いに楽しめば」
他家の者で楽しんでおられるのは北畠か。尾張と伊勢は近い故によくご存じなのだろう。我らも続くべきだ。あてがわれたところで見ておるのもいい。されど、楽しんでこそ久遠殿は喜ばれよう。
「新九郎……」
私が立ち上がると父上は意を決したように続いてくだされた。家臣らもそれに続く。さすがに好きなことをせよと言うても困ろう。少し海に入ることから始めるべきだ。
「北条殿か。さすがじゃの。動くのが早い」
父上らと海で少し泳ぐと、北畠家の大御所様と出くわした。
「恥ずかしながら某はなにをしてよいか分からずにおりました。倅が以前この海水浴に誘われておりましてな」
「ほう、左様であったか。良い倅殿を持たれたの。されどそう恥入ることもない。久遠には久遠の流儀がある。それに倣うことはわしもしておるでな」
ああ、北畠の大御所様にお褒めの言葉を頂くとは思わなんだ。されど、名門中の名門でありながら久遠の流儀も承知とは、この御方こそ並みの公卿とも武士とも違う御方なのだと実感する。
「新九郎殿は内匠頭とも親しいとか。天文関東道中記はわしも読んだぞ。駿河守殿と共に尾張に参って、南蛮船に乗りて本国への旅路と成すとは羨ましい限り」
「あの日以来、某も武芸や学問に励んでおりまするが、未だに内匠頭殿にも尾張介殿にも到底及びませぬ」
父上と大御所様が話しておられるのを聞いておると、御所様がこちらに歩み寄られ声を掛けられた。
「ははは、あの男はそう容易く及びつく相手ではない。かく言うわしもな。内匠頭や奥方らに学んでおるところ。この国に後れを取るまいとな」
昨年の行啓の折にもご挨拶程度はしておるものの、こうして話すのは初めてになる。身分が違うというのになぜか話が弾む。
「北条は織田と領地を接するとか。北畠と似た立場になろうな。これも何かの縁。困ったことがあれば話くらいは聞こうぞ」
「ありがとうございまする。良しなにお願い申し上げます」
尾張介殿とも内匠頭殿とも違う。とはいえこの御方は織田と隣の伊勢で見事に領地を治めて、次代へと
Side:六角義賢
物珍しい光景と言うて差し支えないのであろう。武衛殿から幼子まで、皆が浜で楽しんでおる光景をわしはのんびりと見ておった。
控えることもなく、泳ぎ、語り合い、相撲を取るような者もおる。幼子らは砂で遊んでおるのも見えるの。
ふと見えたのは子らと戯れる滝川八郎の姿だった。父上が出したのを惜しみ、今や彼の者を侮る者は六角家中におるまい。
尾張に倣い、近江を変えようとしておる今だからこそ分かるのだ。あの男の凄さを。新しきことを学び武士や民に繋ぐことの難しさを。
周囲では、すでに北畠と北条は左様な尾張者の中に飛び込んでおる。驚いたのは北条か。誼があるのは知っておるが、院や公卿もおるこの場でかように早く動けるとは。侮れぬな。
「管領代、少し海に入ってみるとよいぞ。あれは中々いいものだ」
さて動くべきかいかがするべきかと悩んでおると、上様自らこちらに足を運びお誘いを受けた。その晴れやかなお顔に家臣らも驚いておろう。
「上様、良いのでございまするか? その……素性が露見する恐れが……」
「さて、なんのことだ? よう似た男など広い世にはいくらでもおろう。つまらぬことを気にせずともよい」
とはいえ尾張には仮の姿である菊丸殿と親しい者も多いと聞く。素性が露見する懸念をついつい申し出てしまったが、上様は露見しても構わぬとお考えのようだ。いや、じっとしておられるのに我慢出来なかったとみるべきか?
「似た男がおった程度で面目が傷つくならそれまで。それでよい。余は三好と朝倉も誘いに行く。そなたももっと楽しめ。海に入り、尾張者と共に遊んでみよ」
「はっ」
困った御方だ。そう思うたものの、未だに動かぬ者らに声を掛けるために動かれておることに頭が下がる。かような御身分ではないのだぞ。
近習に命じてもよい。捨て置いてもよいものを自ら動かれる。
内匠頭殿が見据える新たな世に皆を導く。それをなさろうとしておられる。何故かと少し思案する。分からぬ。されど、上様には上様のお考えがあるのであろう。
おかしなものだ。足利将軍家は元来、守護や諸勢力に悩まされ、その仲介をしつつ潰し合わせることでなんとか世を動かしておったはず。それが今では上様が新たな世に導こうとされるとは。
「少し海に行くか」
倅や家臣らにも動くように促す。公卿や公家衆が気になるが、上様が良いというのならば良いのであろう。
あのお方は真に将軍
Side:三好長慶
「修理大夫、いつまでも眺めておるだけでは暇であろう。もっと好きにしてよいのだ。そなたにとっては海も珍しくないのであろうが、せっかくの場だ」
家臣らが驚き固まっておるわ。このお方は僅かな供を引き連れて先触れもなく姿をお見せになられるとは。
「上様……」
「院と公家衆は気にせずともよい。武士は武士らしくな。特にそなたは易々と尾張に来られぬ。これを機会に尾張の者と誼を深めよ。久遠の流儀で楽しまぬということは、久遠とすると気分が良うないと思わぬか?」
なんと楽しげなご様子なのであろう。わしや家臣らが驚き戸惑うのも楽しんでおられるようにお見受けする。されど上様であらせられるぞ。かような心配りをするべき御方でないというのに。
「畏まりましてございます」
「懸念はあるが、ひとまず忘れろ。時には力を抜くことも
この御方はまことに新たな世を作るおつもりなのだな。尾張と共に。わしのような身分の者も連れていってくだされるというのか? 細川京兆の家臣でしかないわしを。
涙が出そうになる。父の仇である晴元を思い出すと尚更だ。父の仇である男に仕えねばならぬ我が身に幾度苛立ったことであろう。すべては三好家のため。
結局、晴元とは相対する立場となり、一時とはいえ敵になり刃を向けたわしをかように遇してくだされるのか?
「修理大夫、余は尾張のような国を日ノ本すべてに広げたいのだ。今なら分かるであろう? 目の前の光景を見ればな。そのためには今は楽しめ。久遠の知恵は日々の暮らしにある。もしかすると新たな知恵を学べるやもしれぬぞ」
この御方は裏切れぬ。たとえ主家を愚弄した不忠者と末代まで謗られることになろうとも。
この御方は、真に日ノ本の行く末を考えておられるのだ。かような御方をわしは見たこともないわ。
◆◆
内匠頭=久遠一馬
修理大夫=三好長慶
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます