第1430話・新しい一歩

Side:太原雪斎


 静かに言葉も発せぬ御屋形様に、周囲の者らもただただ押し黙るしかない。拙僧とて安堵したものの、左様なことが言えるはずもない。


 斯波との因縁で命を落とした者もかつてはおる。尾張との戦を避け、向き合える力を求めるために始めた甲斐との戦でも多くの者が死した。決して喜べることではない。


「愚か者と弱者は、われかえるとかような心情なのじゃな」


 いかほどの時が過ぎただろうか。御屋形様のお言葉に皆が顔を伏せてしまった。


「されど父上、己の面目のために家を潰して、皆をなき身に落とし、乱世に迷わせるよりは遥かに良いではありませぬか」


 ただ、おひとり前を向いて口を開いたのは若殿だ。若さもあろう。されど若殿は戦よりも、かような場での身の処し方が優れておるのだと実感する。


「であるな。弱き者は弱き者に相応しき生き方をせねばならぬ」


 御屋形様のお言葉が身に染みる。拙僧もまた考えもせなんだ。武士や寺社から土地を召し上げるなど。皆が主家を信じてひとつとなりて国を治める。かようなことがあり得るとは。




 日が傾くと歓迎の宴に招かれた。あまり顔色が優れぬ御屋形様も断ることなど出来るはずがない。


 斯波と織田は一族や重臣がほぼ揃っておると見える。三河の松平殿などおらぬ者もおるが、美濃の斎藤山城守殿などもおるな。


「本日の膳は都にも通じておられる今川殿を歓迎するということで、都の料理を模してみました」


 運ばれてきた膳は相も変わらず華やかだ。久遠殿が膳について話を始めると御屋形様は凝視ぎょうししておられた。かの者がすべてを変えた。それは尾張以外の国ですら周知の事実だ。御屋形様もまた会うてみたかったのであろうな。


 すまし汁には魚のすり身の団子と芋の団子が入っておるそうだ。昆布となにかの出汁の味がする。このすまし汁ひとつとっても真似るのは難しい。織田は芋を他国には一切出しておらず、こちらも手に入れられぬかと手を尽くしたが出来なんだことだ。


 それとこの鰻。駿河におる公家衆もまた騒いでおった品であるな。確かに美味い。ふっくらとした身に駿河ではお目にかかれぬタレがなんとも言えぬ。御屋形様もまたこれは箸が進むようで召し上がられておる。


「なにはともあれ、これで東が落ち着くな」


「寺社とて織田の政は困る故に配慮をせよと言いだすのだからな。困ったものだ」


「己らが優位な時は手も口も出すな。不利になると配慮をせよか。それで神仏の教えだと言うのだからいささか興醒めするわ」


 場にのぞむ今川方の様子はあまりいいとは言えぬ。御屋形様は元より口数が多くないので致し方ないのだが。ただ、織田方はあまり気にしておらぬようだ。あちらこちらで話が始まる。


 織田の不満は今川にもあろうが、寺社に多いようだ。聞けば信濃の諏訪が高遠を荒らすように攻めたことで、織田方に流民が押し寄せたのだとか。


 恐ろしい。寺社すら付いていけぬとは。


「父上、これは都でも食えぬと言われる料理でございますぞ」


「ほう、左様なのか?」


「ええ、久遠料理は日ノ本一とか。鰻だけは都の餅屋なる内裏の御用を務める忠心者ちゅうしんものが特別に許されて作れると聞き及びますが、あとは公卿ですら食えぬと嘆いておられました」


 織田方が僅かに驚いたのが分かる。若殿がご機嫌な様子で膳の料理のことを御屋形様に話し始めたからであろう。


 変わった若殿だ。因縁も臣従も致し方ないと思うのか。こちらの誰もが押し黙る中、ひとり喜ぶ様子で口を開く。見方を変えると愚か者にも見えるほど。されど左様な御方ではない。




Side:久遠一馬


 今川方はほんとお通夜のようにおとなしい。まあ仕方ないんだろうね。こちらはあまり暗くならないように皆さんが配慮をしている。


 今川方でひとり頑張っているのは氏真さんだ。やはり場の空気や人の顔色を見るのが得意らしいね。状況判断もいい。領地を失っても太平の世まで生き残ったのは、こういう人だからだろう。


「日ノ本一とは大袈裟でございますよ。まあ、余所よりも多くの食材を得られるという意味では日ノ本一かもしれませんが。当家では蝦夷や琉球は元より各地の荷が手に入りますので」


「いや~、唐天竺の料理の技もご存知なのでしょう。日ノ本一と言うても過言ではありますまい」


 余計なお世話かなと思いつつ、氏真さんに声を掛けるとすぐに答えを返してくれる。こういう時、味方になって一緒に盛り上げてくれる人いないと辛いんだよね。


 言い方が適切か分からないけど、一番因縁とかに縁がないオレが動くべきだろう。


「確かに技も知恵もありますよ。当家はそれで生きておりますので。今川家ともまともに戦などすれば困るからこそ、戦をしないようにしておりました」


 少し場の空気が止まった。ちょっと踏み込み過ぎたかな? でも氏真さんなら上手く返してくれるだろう。


「織田の方々のほうが一枚上手でございましたな。今川では、つい先日までかつて斯波家と戦をして勝ったことでいい気になっておる者も多うございました」


「戦をすれば双方に大きな被害が出たでしょうね。被害を出さずに勝つにはこれしかなかった」


 武士というより公家と話している気になる。程よく相手を乗せる会話が上手い。氏真さんは清洲で役目を与えても上手くやれるだろうな。


「金色砲であれば遠江と同じことになったのではございませぬか?」


 なんとか場の空気が落ち着いてきたと思ったら意外な人物が会話に加わった。義元さん本人だ。さすがに周囲が驚いたのが分かる。


「戦が厳しく難しいのは皆様もご存じのはず。戦に絶対はなく、おごらずおびえず、冷徹れいてつ算段さんだんの上に勝てるとの確信がないならば、安易に戦をするべきではないと思います。それに勝った後が大変ですから。織田とて他所から見るほど余裕はありませんよ」


 出来ないというほどでもない。負担と戦後を考えないなら。なにより戦を避けていたのは両家なんだ。それは変えようがない事実になる。


「私が尾張に来て七年を過ぎましたけどね。一番悩んだのは今川家とどう向き合うかということですよ」


 桶狭間の戦いという史実がどうしてもあったことから、今川対策は一番悩んだ。一向衆は割と早く願証寺がこちらに歩み寄ってくれたしね。


「某には過ぎたる言葉、ありがとうございまする」


 年上の義元さんに畏まられると違和感しかないんだけど、まあ仕方ないんだろうね。ただ、お世辞じゃない。


 変なわだかまりとか持たないで前を向いてくれるといいんだけど。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る