第1405話・天下の潮目
Side:今川義元
「御屋形様。何故、かようなことに……」
尾張からの突然の知らせに家中が騒然としたの。朝比奈備中守もまた信じられぬと言いたげな顔をしておるわ。されど噓偽りなどあろうはずがない。
「行啓と譲位と続いた先が御幸となる。初めからここまで決まっておったと考えるべきであろう」
朝廷や帝の名を使った謀、ないとは言えぬ。都の公卿公家も一つではなかろうからの。然れど武家が自ら謀るなど許さぬが朝廷と言うものよ。仮に
「御屋形様、譲位の祝いということで遠江の者らを許されてはいかがでございましょう」
「なんだと! あの者らを許せというのか!! 己で織田と戦も出来ぬ分際で騒ぐ愚か者どもを!!」
即座に新たな進言をした雪斎に幾人の者が異を唱えるか…。織田は仕方ない。されど謀叛を起こした家臣だけは許してはならんと皆も息巻いておったからの。やり場のない憤りと苛立ちをそこにぶつけておるだけとも言えるがの。
「御幸までに遠江を平定出来るならば、いかような策でも構いませぬ。されど臣従を誓い、一度は若君まで出し送り、その身を
その言葉に一同が静まり返ったわ。
かつては斯波が守護をしておったとはいえ、すでに今川家で治めて幾年月も過ぎておる。同じ家中だったこともあり、あまり苛烈な戦はしておらぬ。信濃と甲斐で多くの者が亡くなり、かような余裕がないこともあるがの。
また遠江の国人は織田に助けを求め使者を送ったようじゃが、すべて門前払いにされてしまったという。吉良家もおる故、縁に縋った者もおるとのこと。されど、こればかりはいかようにもならぬと言われたとか。
「皆の者、此度こそ駿河今川家最後の戦である。織田に後詰めも請う。なんとしても御幸前に遠江を鎮めねばならぬ」
すでに小笠原と武田が織田に臣従をしておる。これ以上の遅れは今川家にとって恥どころの騒ぎではなくなる。
北条は動くまい。東への抑えはほぼ要らぬ。駿河と三河から持ちうる限りの兵を集めて遠江を鎮めねばならぬ。
「しかし、いずれにしても我らは詰んでおりましたな」
御幸、これを知る前に臣従を願い出て良かった。そう言いたげな朝比奈備中守の言葉に、皆がうなだれるように同意したか。
銭や献上品だけでは御幸などありえぬ。その程度で御幸をするならば畿内にていくらでも御幸があったはず。無論、利や思惑もあろう。されど朝廷の真意は、織田への期待と恐れであろうな。
仏の弾正忠と久遠一馬。かの者らならば朝廷の力がなくとも国を変えてしまいかねぬ。尾張だけで太平の世など築かれてみろ。それこそ朝廷の終わりが来ると案じたとしてもおかしゅうないわ。
駿河におる公家らを見ておると、朝廷の慌てふためく姿が、『
是非もなし。まさに今川家の背水の陣じゃ。
Side:久遠一馬
塚原さんと菊丸さんが近江へ出立するからと挨拶に来てくれた。観音寺城に戻り、そのまま正式に上洛するそうだ。譲位という歴史の節目に将軍が都を不在には出来ない。
譲位と行啓・御幸は追認という形で認めたことなので異論はないようだけど、これ以上朝廷に勝手な動きをさせないようにする。義統さんと信秀さんとオレたちが義輝さんと話し合った結果だ。
このまま行くと足利家と朝廷の関係にも影響がある。
「申し訳ございません。私たちの献上品がこのような事態になるとは……」
「気にするな。皆、必死なのだ。そもそも今の世が荒れておるのは足利が悪い。いずれにせよ公卿はこちらで抑えねばならぬということだ」
元々、崩壊寸前だったとはいえ、朝廷と足利家のパワーバランス崩したのは織田…。
「なにかあれば武衛陣にいる当家の者に伝えてください。こちらもすぐに動けるようにしておきます」
ないとは思うが、畿内の騒乱も一応警戒する必要がある。義輝さんの上洛には六角が主に兵を出すけど、織田と北畠も多少出す。
洛中の滞在先は武衛陣を貸すことになった。足利家の御所。荒れているようだし、あそこだと古くからいる者は細川晴元に通じる者がいる懸念もあって、義輝さんの身の安全が守れないんだ。
細川晴元が若狭と丹波の兵と共に上洛を試みると、最悪こちらも兵を出す必要があるかもしれない。
まあ、三好長慶がいるし晴元にそんな行動力ないと思うけど。戦下手とは言わないものの、譲位を前に足利将軍家に兵を挙げるような度胸がある男じゃない。
「そう案ずることはあるまい。あとは任せておけ」
菊丸さんは一瞬だけ将軍様の顔になり、少し自信がありげな様子で笑みを見せた。
「世が動くな……」
菊丸さんたちが帰ると、ふとそんな言葉が出ていた。
「主導権は握れますよ。上様の権威は先代様の頃よりあります。健在だと示せば、公卿も公家もおかしなことは考えません」
エルにそう言われるとホッとする。
しかし政治って難しいね。義輝さんの権威が上がった理由もまたオレたちにある。朽木に逃亡していた将軍がオレたちと会うことで菊丸さんとしての立場を得た。
結果として三好との争いになんのメリットもなくなり和睦して、近江と濃尾の安定が義輝さんの政権に大きな力となった。
「捨てるつもりの地位で権威があがるなんてね。菊丸とすると複雑だろうね」
ジュリアが珍しく少し心配そうな顔をしている。将軍としての義輝さんと武芸者としての菊丸さん。どちらも表裏一体だからね。
ただ、ジュリアが菊丸さんの名前で語ったように、本音は菊丸として生きたいように見える。
必ずしも自ら望んではいない将軍としての権威と力。封建体制が終わった時代を知るオレたちからすると何とも言えない気持ちになる。
「これが終われば、状況も変わる。デメリットもあるけど、この状況を最大限に利用するしかない」
オレは味方になってくれた人や、オレたちに責任がある人たちのために動く。悪いけど、それ以外の人たちは二の次だ。
朝廷の動きで修正を余儀なくされたけど、統一計画は続いている。
オレたちはオレたちのやり方でやる。武勇と知恵で戦と謀をしたところで史実以上の統一があるとは思えないしね。
義輝さんが無事に戻ってこられるように、こちらも密かにオーバーテクノロジーでサポートしよう。
◆◆
天文二十四年三月、将軍足利義輝は菊丸として滞在していた尾張を出て近江国観音寺城に旅立った。
この頃の義輝と一馬のことについて、『足利将軍録』の『義藤記』に続く『義輝記』に記載がある。
朝廷の権威と在り方をどう考えどうするのか、義輝は一馬たちと尾張にいる間に本音で話をしたとあるのだ。
詳しい内容は残っていないものの、行啓や御幸は織田家のみならず久遠家や斯波家ですら想像を超えるものだったようで、今後の動きや朝廷への献金や献上品についても議論があったようである。
朝廷も決して無理難題を言っていたわけではないが、濃尾から東に領地を広げていた織田に対して、朝廷にとっての天下の政、即ち京の都での政に目を向けさせるために苦労をしていたという事実は、幾つかの日記や手紙で見ることが出来る。
世の中が変わり始めていることを感じ取っていた者は少なからずいたと『資清日記』にも記されており、同時代の者たちが活発に動き出した理由と思われる。
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