第1388話・知る者と知らぬ者

Side:穴山信友


「まさか……、あり得ぬことであろう」


 今川との戦で疲弊した甲斐をなんとか立て直すべく思案しておると、富士浅間神社から思いもよらぬ話が舞い込んだ。


 若殿と武田の御屋形様の妻子が尾張におり、織田に臣従するとか。富士浅間神社のほうでもこの件は驚きだったようで、まことかと確かめたようだが、事実のようだという。


 当家は武田の家臣ではない。故にこの窮地に今川との和睦と武田を立て直すべく思案しておるというのに、まさかかようなことが……。


「武田の御屋形様は近頃、出仕してくる者らだけとしか会われぬとか。小山田のほうにも特に使者を出しておらぬ様子」


 御屋形様の様子がおかしいのは昨年の戦の後からだ。あの御方が当主では武田は立ち行かぬと、同盟の見直しを示唆して脅しをかけた。


 当然、すぐにでも今後のことを話したいと使者が来て然るべきと待っておっても、一向に使者は来ぬ。


 それどころか信濃先手衆や他の国人らの人質も返してしまい、まるで守護の役目を捨てるかのような振る舞いをなされておる。


「いったい、なにを考えておられるのだ? まさか若殿が謀叛でも起こして追放されたのか?」


 家中の者と親しい国人らを集め今後のことを話す。


 御屋形様の妻子は要害山城におると噂がある。されど、それが偽りでまことに尾張におるとすれば、いかなる訳があるのだ?


 若殿は傅役である飯富兵部の意に染まり、強者尊崇の教えで固まり、武辺者だ。戦に勝てぬ御屋形様と争い、追放でもされたか?


 御屋形様と若殿の仲は良いとも悪いとも言えぬ。


 ここ数年は戦や不作でそれどころではなかったが、昔は公家を招いて宴やら歌会を開いたこともある。されど、若殿はまだ学ぶべきことがあると言い訳をして飯富兵部が出さなかったくらいだ。あの男は公家嫌いだからな。


 御屋形様も飯富兵部にはあまり強く言えぬところがあり、任せておったようだが。


「そういえば飯富兵部はいかがしておる?」


「さて、隠居すると言い出して以降、己の城に籠っておりますな」


 尾張で飯富兵部と若殿が諍いを起こしたらしいのは聞いた。いかに敵地とはいえ祖父でもある三条公の機嫌を損ねるなど、愚かだが、飯富兵部らしいといえばそれまでだ。


 まさか飯富兵部と若殿がなにかしらの謀でもしたか?


 分からぬ。今しばらくいかになっておるか探るしかないか。小山田にも使いをこちらから出すか。


 今川もいかなるわけか織田に降るという。おそらく形ばかり頭を下げて和睦と言うところだと思うが。


 ともかくあの御屋形様では駄目だ。早急に次を考えねばならぬ。




Side:久遠一馬


「あら、ほんとうに上手ね」


「ちーち! まーま!」


 エルが褒めると武尊丸が嬉しそうに笑い、勢い余ってころんと座り込んだ。実は武尊丸がよちよち歩きを出来るようになったというので見に来たんだ。


「たー、あそぼ!」


 そんな武尊丸に大武丸が声をかけて、希美や輝たちも一緒に仲良く遊び始めた。喧嘩するようなときもあるらしいが、すぐに仲直りして一緒に遊んでいるそうだ。


「ここの屋敷も相変わらず賑やかだね」


「ええ、皆、懸命に励んでおりますわ」


 シンディの淹れてくれた紅茶で一息つく。熱田の屋敷を任せているシンディとリースルとヘルミーナは忙しいようだ。


 シンディはどういうわけか、お茶関係の指南を頼まれることが多くて織田家中の交流がメインになりつつある。リースルとヘルミーナが今は代わりに商いや諸懸案の対処をしている。


「ところで、宇治と山田の商人の一部が泣きついてきているわよ」


 懸案というわけではないけど、商人組合を主に担当しているヘルミーナからの報告に少し苦笑いが出たかもしれない。


 大湊が公界を捨てて北畠に臣従をすることを知ったんだろう。それにより商人組合にも正式に加盟が許されて、品物の値段などが織田領内と完全に同じとなった。大湊は万々歳だとホッとしているようだけど、一方でこちらの要請を聞いたふりをして無量寿院と裏取引をしていた宇治と山田は、伊勢で一番高い物価になっている。


 もともと宇治と山田にもこちらの要請をきちんと聞いていた商人と、そうでない商人がいる。今のところ同一に扱っているので不満やら驚きはあって当然なんだよね。


「北畠家と相談して、従順なところは相応に手を差し伸べてもいいかもしれないな」


 あそこは神宮の門前町で北畠の勢力圏だから、オレたちで決められないんだよなぁ。具教さんと晴具さんに相談しないと。


 ただまあ、あちこちの伝手を使ってオレの耳にまで入るということは、だいぶ困っていることは確かだろう。一枚岩でないならつけ入るスキはある。勝手なことをしていない商人は潰すには惜しい気もする。


「あとで報告を上げますが、商人組合は事実上の銀行業務の恩恵がありますので。大湊からはさっそく『此方こちらでも同様のことをしてほしい』と嘆願が出ています」


 商人組合、これの成功の陰には昨年の正月から拡大した銀行業務がある。リースルはそっちの管理もしてくれているんだけど、大湊からさっそくお願いがきているのか。


 三河、美濃、伊勢、飛騨、志摩、伊豆諸島でも、それぞれの城や奉行所で『預金』『融資』『為替』の業務をしている。ただし大湊は公界だったので業務拠点がない。大湊の商人が織田手形を換金する時は織田領まで来ていたんだ。


 まあ、体裁も捨てて臣従を選んだ以上はそれも望むよね。これも北畠と話をしないと駄目だ。


「ヘルミーナは組合を、リースルは銀行のほうをお願いね」


 銀行業務は津島のマリアと蟹江のミレイも担当していて、三人で協力して組織づくりをしつつ業務が円滑に行えるようにしてくれているんだ。


 あと組合は津島のテレサと蟹江のエミールも、それぞれの町の商人たちと共に頑張ってくれている。新しい制度だからね。相応に混乱と不正をしようとする人とかいる。ただ、商人もその道のプロだからね。


 仕組みと決まり事を理解すると、すぐに戦力となり頑張ってくれているようだ。


「ちーち……」


「いいよ。おいで」


「わーい!」


 少し仕事の話をしていると、希美が遠慮がちに声をかけてきた。なんとなく雰囲気で仕事だと分かったんだろう。手招きしてやるとトコトコ歩いてきて膝の上に乗った。


「まーま!」


 ああ、他の子たちも負けていられないとみんなに甘えている。


 いいね。こういう時間が本当に幸せだなと感じるよ。



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