第1370話・亡国の武田
Side:武田義信
「では父上。我らは……」
別れの盃となるやもしれぬ酒を酌み交わす。女子供には泣いておる者もおる。これが甲斐源氏である我らの定めだというのか。
「外に漏れたやもしれぬ。守りの兵は付けるが、道中で襲われることもありえよう。必ず守り通せ」
「ははっ!」
すでに穴山と小山田の人質は返したのでおらず、
穴山・小山田を筆頭に日和見をしておる者は多い。されど父上を支えんとする者もおるのが事実。かの者らをいかにするのであろうか?
聞くまい。武運に天命、
持ち
「雪か……、ちょうどよい。雪がすべてを覆い隠してくれよう」
館を出ると雪が降っておる。典厩の叔父上は寒さと飢えをもたらす忌々しい雪にて、天啓を得たと言わんばかりで皆を落ち着かせようとした。かようなところは兵部から学ばなかったな。
兵部は今の武田をいかが見ておるのであろうか? 尾張より戻って以降は一切の音沙汰がない。この仕儀はあれにとって、わしは
「若殿、参りましょう。まずは要害山城に入ると見せかけるべきでございます。そこから武蔵へ行くべきかと」
守りは孫六信廉の叔父上と、春日弾正虎綱か。
誰も口を開かぬ。僅かに降り続く雪と、白い吐息のみが見える中、館が見えぬようになるまで時折振り返る者がおっただけだ。
決して恵まれた地ではなかった。されど、ここが我らの生まれ育った地なのだ。
「ぐすっ……、ぐすっ……」
まだ九つの四郎にはいささか
「泣くな四郎。父上も後で来ると仰せだ」
四郎は諏訪の血を引く者なれど、残してなどいけぬ。父上がだまし討ちをしたこともあり、諏訪はいかがなるか分からぬからな。母である諏訪御料人と共に連れていかねばならぬ。
要害山城で一晩過ごして武蔵を目指す。
「若殿、この先に賊か
東へ向かい、武蔵国ならば武田の所領を通っていけるのでなんとかなると思うたが、山道を歩いておると、あと一息というところで不穏な知らせが入った。
「若殿、ここは我らにお任せを。もしいずれかの手勢ならば、若殿らは少し迂回して行かれませ」
「弾正……」
叔父上らといかにするか話すが、そこで自ら声を上げたのは春日弾正だ。
「弾正、済まぬ」
「某は御屋形様に最後まで付き従いとうございます。いずれにせよ残るつもりなれば、派手に戦い武田の武勇を示して見せましょうぞ」
守りの兵を幾らか連れて、弾正が先陣を切るように何者かが待ち受けておる街道の先に向かう。
少し様子を見ておるが、弾正の兵から先に行けと合図が見えた。
街道を逸れて山の中を歩き武蔵を目指す。ろくに歩いたこともない幼子は抱きかかえてゆかねばならぬ。
武蔵まではあと少しだ。あと一息なのだ……。
直に日が暮れる。さすれば……。
Side:久遠一馬
「甲斐から密使が参ったぞ」
義統さんに呼ばれたので何事かと思ったら、その件か。
「妻子をこちらに送る故、嫡男を内匠頭に召し抱えてほしいそうだ」
条件もなにも書かれていない。国を捨てる者が情けに縋って助けを求めているんだ。断れることじゃない。
「思い切りましたね」
よくここまで持たせたなと思う。父親の信虎さんの代からいる独立心の強い国人たちが勝手ばかりして信濃で汚名をかぶり、村上に負けたまま挽回も出来ないうちに全盛期の今川と争った。
戦自体は五分と言っていい。小笠原さんの執念が
西に織田という強大な勢力が見え始めて、東の北条が織田と通じた。武田にしても今川にしても苦しい立場だったからね。
まだ落城もしておらず、甲斐の中では同盟破棄があったものの争っているわけではない。この段階で甲斐に見切りを付けたことは、彼がやはり史実の偉人だからだろう。
史実の晩年と比べると経験不足は否めないが、素質が開花したとみてもいいのかもしれない。
「ひとつ間違えれば、明日は我が身か」
喜びとも哀しみとも取れない様子の信秀さんが独り言のように呟いた。他人事ではない。武士として一国を差配した経験があれば、誰でもそう思うのかもしれない。
特に今回は小笠原さんの決断が一気に情勢を動かした。オレ自身も含めてだけど、正直、小笠原さんの実力を軽く見て、その胆力を知らずにいた人たちには衝撃も大きかったと思う。オレもその一人だ。
あの決断で信濃を武田が失うことが確定してしまい、甲斐武田が崩壊した。今川の臣従だけだと、今頃武田による信濃攻めが再開されていてもおかしくないんだよね。
義統さんたちと違い、史実を知るだけにどうしても少し歴史の違いが無情に思えてならない。
◆◆
天文二十三年、十二月。武田晴信は一族や自身に従う者の妻子を甲斐から脱出させている。
これは同年十月に起きた小笠原・今川連合との戦の影響であり、父信虎が仮初めの甲斐統一をして築いた、甲斐国人の鳩合体制が崩壊したことによる出来事であった。
当時、『東国一の卑怯者』『日ノ本一の卑怯者』とまで噂された武田ではあるが、晴信は北条との同盟を堅持しつつ織田との関係を構築しようと努力していた。
ただ、状況があまりに不利だったことと、晴信自身の同盟破りに最後まで悩まされた結果であった。
なお、この時点では甲斐国人が武田に表立った敵対行動をしておらず、武田家家臣や甲斐国人は晴信の隠居と義信の当主就任による体制の刷新を考えていたことが窺える。
しかし晴信はすでに甲斐という国をまとめることに固執しておらず、尾張より変わりつつある世の中での武田家の存続を第一に考えていたようであった。
いずれにせよ信濃にまで迫っていた織田と対峙する必要があり、同盟とは名ばかりで、鳩合から烏合に転落するだけが見えた甲斐に於いて、名声も力もない以上は早急に臣従をしたほうがいいと決断したのだと、『甲陽軍鑑』に書かれている。
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