第1365話・それぞれの冬
Side:武田義信
「父上……」
「そなたも甲斐を出ろ。ここにおっては先がない」
女子供を甲斐から逃がす。まさかの
「甲斐はいかがなりましょうか?」
「織田次第であろう。あまり欲せぬなら捨て置かれるかもしれぬ。そなたは典厩と共に皆を連れて相模に行け。そのまま尾張を目指し、織田に降るのだ」
捨てるのか? 代々守り通した甲斐を。戦で勝てば……、などと言えぬか。今川にすら勝てず、穴山や小山田はいつ敵となってもおかしゅうないと皆が慌てておるのは事実なれど。
「無念でございます」
「すまぬな。そなたに継がせる所領がなくなる。されど織田は所領を認めておらぬ。同盟する力もない以上は降るしかないのだ。ならば早々に捨てて降るのもひとつの策と言えよう」
父上は何故……。
「ひとつお伺いしたきことがございます。何故、最後まで戦おうと思わぬのでございましょうか?」
あまりに諦めが早いのではと思えてならぬ。
「……そなたは若いな。甲斐はな、わしの父上が苦労してまとめたのだ。その父上を皆はあっさりと追放した。今またわしが甲斐をまとめるのに、いかほどの年月がかかると思う? 甲斐をふたたび武田の下でまとめる頃には、次はわしを疎んで追放しようとしても驚かぬ。左様な国なのだ」
卑怯者の国であったな。甲斐は。父上ひとりの責めではなく、皆が卑怯者ということか。
「小笠原が面白き策を教えてくれた。甲斐守護を返上して甲斐は織田にくれてやればいい。俸禄となるが、織田家中ではそれで食うていけておる。姉小路は飛騨すら満足に治められず、京極は流浪の管領の下でくすぶっておった者。かような者らですら、体裁を守る以上の働きで暮らしておるのだ。武田とて生きる場はあろう」
父上……。
「よいか、家を残せ。なんとしてもな」
「はっ、畏まりましてございます」
「この寒空で旅はつらかろうが、皆を守り、必ずや尾張に行くのだぞ。わしも始末を終えたら尾張に行く。生きてこそ先がある。そう心得よ」
わしの知らぬことを父上はよう知っておられる。いかにして父上は目の届かぬ先を見ておるのであろうか。
教えを請う時もないか。いや、自ら学べということか。
考えておる暇などないか。叔父上と相談して急がねば。
Side:今川義元
「織田は兵を挙げぬか」
まさか臣従の証として出した倅を、領国で学んでこいと戻すとはな。しかも求めるならば助力も惜しまず、後詰めもすると書状まで寄越したわ。
信秀はもちろんながら義統も承諾したというのか。
「織田は自ら領地を求めて戦を致しませぬ。それが必要ないという事情もあるのでございましょう。兵など挙げずとも領地を治められるのかと思いまする」
雪斎の言うことはもっともよ。されど、人の心情までは偽れぬ。因縁も先代の屈辱もすべて水に流すというのか?
「恐ろしき相手じゃの」
「はっ、まことに。つきましては若君でございまするが、朝比奈殿と共に三河吉田城でしばらく睨みを利かせていただくべきかと存じまする」
岡部といい朝比奈といい。わしは家臣に恵まれたの。相手が織田でなくば、名を上げる場を与えてやれたであろう。それだけは悔いてしまうわ。
「一門衆はいかがじゃ?」
「遠江の堀越と駿河の瀬名は当主が討ち死したこともあり、臣従などあり得ぬと騒いでおりますな。他も国人らは素直に従うと言うておるところもありまするが、様子見をしておるだけかと思われまする」
堀越と瀬名か。遠江今川家として、わしに従えぬということか。甘く見られたものよ。己らで織田に降る気か? あり得ぬの。まさか斯波に付けるなどと妄想してはおるまいな? そこまで行けば乱心者とされようぞ。
「従えぬならば戦しかあるまい」
愚かな。織田は領国において武士も寺社も所領を認めておらぬのだ。家臣を減らしたところで今川家が困ることはない。むしろこちらの俸禄から食わせていくだけの者など不要だ。
奴らのおかげで彦五郎に武功の機会を与えてやれる。それには感謝せねばならぬわ。
Side:エル
「ははうえ」
台所で料理をしていると大武丸がやってきました。ひとりとは珍しいですが、厠に行った帰りのようですね。
「もう少し待っていなさい。ご馳走を作って、皆で大武丸と希美の誕生日を祝うのですよ」
いつも賑やかなことが多い屋敷ですが、今日は大武丸と希美の祝いにと尾張在住のみんなも来ていてさらに賑やかです。大武丸もそれが分かるようで嬉しそうです。
「さあ、大武丸様。皆のところに行きましょう」
台所は火も使っているので危ないと、一緒にいた侍女が抱きかかえてくれました。
「あい!」
子育ての仕方は私たちの教えるものにみんな合わせてくれています。あまり甘やかさず叱る時は叱る。難しいですが、皆で試行錯誤しながら頑張ってくれています。
今日は大武丸と希美の好物も作ります。喜んでくれるといいのですが。
「まーま! まーま!」
「あらあら、
「うん!」
こうして食べてくれる子供たちを思い料理をするのは本当に楽しい。そう思って調理を続けていると、今度はジュリアと輝が来ました。私に折り鶴をくれるようです。
「なんかね。みんなにあげたいみたいでね」
ふふふ、誰かが贈り物をするのでも見たのでしょう。新しい遊びを覚えたようですね。子供が育つのは本当に早い。ジュリアも嬉しそうです。
「ひめ! あげる」
「私もいただけるのですか。ありがとう!」
ちょっと前までヤンチャだったところもあった市姫様も、今では落ち着いてきました。この時代の女性とは少し違う感性と価値観も合わせ持っています。
彼女や孤児院の子供たちの成長が私たちの希望であり、私たち自身も子供たちの成長から多くのことを学んでいます。
すでに尾張は他国と常識からして変化しつつある。領内において武力を用いる争いは禁じていますし、個々で領地を治めるということ自体がすでに古いと考える人すらいます。
生まれ育った村から出て働き、
小笠原と今川の臣従も驚きは少なく、斯波家の因縁がようやく晴れたと喜ぶくらいですからね。
変化は私たちが望もうと望むまいと、これからも続くでしょう。人の一生は短い。私たちは子供たちが自ら望んだ人生を送れるように、少しでも環境を整えなくてはなりませんね。
こうしてみんなで祝いの日を迎えられるだけで、私個人としては十分なのです。
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