第1364話・苦難の信濃
Side:
尾張に行った若殿が戻られた。
何事かと思うたら、まさか駿河と遠江を早々にまとめよと命じられて送り出されるとは。御屋形様への書状もある。これは早急に駿府に届けねばならぬ。
「遠江はそれほど荒れるのか?」
「はっ、恐れながら」
若殿もご理解されておられぬか。今川として治めるならよいのだ。されど織田に降るとなれば話が変わる。かつて斯波が守護だった頃と違い、斯波と縁ある者はだいぶ少ないが、それでも主が変わるとなると騒ぐのが武士というものだ。
今川から独立を狙う者もおろう。己の力を見せて斯波や織田に直に召し抱えられたいと願うはずだ。今の武衛殿は家臣を内匠頭殿以外は持たぬと知らぬ者も多かろうからの。
然れど人質としての役目より領国で学び、一刻も早くまとめよとは。織田の動きが早いのがよう分かることよ。
「すぐにでも兵を挙げるかと思いましたがな」
「父上次第のようだ。正直、あまり乗り気でないようにも見えた」
ただ、理解出来ぬところもある。遠江は斯波にとって因縁の地だ。自ら挙兵して因縁を晴らすこともあり得ると思うたのだが、こちらの意向を聞かぬうちに動く気はないとは。
若殿は人の胸の内を見抜くことに長けておるお方。内匠頭殿が遠江への派兵をあまり乗り気ではないのは確かか。
分からぬな。織田が兵を挙げれば遠江ならばすぐに落とせよう。それほど領国を治めるのに苦労しておるのか? 少なくとも我らや武田よりは楽なはずだが。
我らがまとめれば、今川家の手柄となる。それを容認するというのか?
「あの国はまことに天下を見据えておるのやもしれぬ。オレにはそう見えた。信濃・遠江・駿河ではない。その先を見据えておるのだろう」
若殿の言葉になるほどと思わされる。まことに尾張から天下に挑む気か。
遠江で手間取ることは許されぬな。御屋形様はいかがなされるのか。若殿には御屋形様の命が届くまで、ここでお待ちいただくべきであろうな。
Side:ウルザ
私とヒルザは旅の僧に扮して東美濃から木曽領に入っている。東美濃から木曽路の様子を自分の目で確かめたかったためだ。
関ヶ原の危険性が低くなり、常駐している意味も薄れつつあったのもあるけど。
「難題山積みね」
途中の寺で一夜の宿を借りて現状の把握と課題について考える。東美濃から信濃に入る東山道の木曽路は木曽家が整備をしていたという情報通り、この時代にしては他の街道よりは整備されている。
信濃織田領の拠点のひとつになることに変わりはない。ただ、東山道美濃側の街道整備を進めないとだめね。悪くないけど良くもない。馬一頭と人なら通れるけど、それ以上ではない。
それにしても東美濃からこっちはとにかく山が多い。当然なんだけど。この地を開発するのは苦労するわねぇ。
「武田と今川の噂でもちきりね。こっちに被害はないようだけど、相当酷いらしいわ」
「死傷者五割って、なかなかないものね。織田臣従がなければ、もっと荒れていたと思うわ」
同行する忍び衆が噂話やこの地の情報を集めてくれた。木曽家は商いを重視するだけに、美濃からの商人を大切にしているので評判はいい。
ただ、こっちにも武田と今川の戦から逃げてきた者たちがいるようで、トラブルになっている。武官と警備兵も先行して入っているけど、この地の掌握はもう少し時間がかかるわね。
小笠原領への物資輸送は当面は三河経由のほうがいいかもしれないわね。この辺りは雪も降っているわ。私たちもあまり無茶をするとお叱りを受けるから、これ以上信濃に深入りはしないけど。
夏ならまだ山で山菜が採れる。でも雪が積もる信濃では山の恵みも秋の後半からは望めない。戦場となった辺りでは飢え死にする者が多数出るのではと噂になっている。
飢えは人を狂わせる。最悪武田領のほうも支援するつもりでいたほうがいいわね。
Side:小笠原長時
まことに食べ物を運んでくるとはな。武衛様や内匠頭様が嘘偽りを仰せになるとは思わぬ。されど、臣従をしたばかりの地にこれほど早く貴重な食べ物を次々と寄越すとは、まさに仏の慈悲そのもの。
あり得るか? 新たに得た領地とはいえ税を取ったわけでもない、己の民とも言えぬ者らだぞ。来年の税が入るまで捨て置いたところで誰憚ることもないというのに。
「米と雑穀と塩はまだまだ届きまする。これをもって民を働かせて食わせたいと思いまする」
「こちらに異論はない。そもそも領地はすでに献上しておりまする。戦が終わり次第、内匠頭様の領地。とはいえ今はまだ我らが働かねば困りましょう。なんなりと申しつけくだされ」
もう守護でないのだなと実感する。されど、尾張からくる者らが当地の者を飢えさせぬようにと働くのだ。ただ見ておるわけにもいかぬ。
それにしても驚いたわ。織田はこの地をも本気で変えるつもりなのだな。豊かな地とまではいかずとも食えるようにする。尾張から来た者らはそう言い切った。
「あと賊狩りを行うので手勢を集めてくだされ。そして領内に久遠家の者が来るかもしれませぬ。特に大殿の書状を持つ者は殊更に丁重に扱われることをお勧めいたしまする」
「それは構いませぬが、いかなる理由でこの地に?」
「久遠家の御家中は、上は御当主内匠助殿、下は
「かたじけない。皆に気を付けるように言うておきまする」
そういえば花も育てておると聞いたな。尾張を豊かにしたのは久遠の知恵だとか。噂はまことであったか。
あれほどの武芸の腕前を持つ奥方がおるのだ。知恵者もおるのであろうな。されど、この地で食えるようにするなど出来るのか?
「まあ、信濃は山がある。久遠家が山で銭になることを色々と教えてくれましょう。炭焼きの新しき技も美濃や三河では教えておられる。今より悪うなることはないはずだ。とにかくこの冬を越すことが今は肝心でございます」
武衛様とは同じ守護などと言えぬほどの力の差があったが、見た目以上に領国に違いがあったか。今川が臣従したのは面白うないが、とはいえ先を越されずに良かったと言えよう。
なんとか荒れた領内を立て直してやらねば小笠原家の恥となる。弟にもよう言うておかねばならぬな。
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