第1360話・兵どもが意地のあと

Side:久遠一馬


 清洲城がいつにも増して騒がしい。


「半数がなにかしらの手傷を負ったとは……」


 緊急で開かれた評定で報告されたのは武田と今川の戦の結果だ。


 二日間に渡る戦で、両軍合わせて五割近い死傷者を出したと忍び衆の報告があった。ウチと信秀さん直属の忍び衆の報告に多少の誤差はあるものの、戦が頻発しているこの時代でさえ珍しい結果だ。


「小笠原殿の執念が実りましたな」


 その言葉は皮肉だろうか? 本音だろうか? 義龍さんの性格を考えると本音かな。


 戦に関しては一日目でも被害が甚大だったみたいだけど、今川は退かず翌朝には甲斐戦線で今川方が朝駆けを試み、信濃戦線ではなんと両軍が夜討ちを実行した。


 甲斐の戦線は武田方がなんとか守ったものの、信濃は両軍入り乱れたため、無秩序な乱戦になって被害がさらに増えたようだ。


 奇しくも日暮れ頃から両地域で雨が降り続いており、特に信濃戦線では小雨の中での奇襲を実行したらしい。


 桶狭間の戦いと川中島の戦いが一度に来た。そんな印象を受けた。もっとも今川義元、太原雪斎、武田晴信、武田信繁、小笠原長時など主な者が生きているのは確認済みだ。


 悲惨なのはここからだった。


 両戦線共に二日目の午後には戦は終了して撤退を始めたらしいが、特に信濃戦線では領民による落ち武者狩りが行われたそうだ。武田も今川も所詮は余所者、幾度も戦をされて現地では領民の不満が溜まっていたんだろう。


 信濃戦線では両軍ともに組織立った撤退に合流出来なかった者も多かったらしく、落ち武者狩りに拍車をかけたみたい。


「面倒ばかりだな」


 信秀さんがため息交じりに本音をもらした。面目や意地で始まった戦と言っていい。甲斐は織田には関係ないけど、信濃は小笠原さんの臣従により少なからずこちらにも影響がある。


 それに武田、今川の両家は被害が甚大で、このあとどう動くか予断を許さない状況でもある。ただでさえ求心力が落ちていた武田はもたないかもしれない。今川に関しては織田臣従に対する不満が出ると、こちらも内乱とまではいかなくても蜂起くらいはあるかも。


 小笠原方はほとんど動かなかったと知らせが入っている。小笠原さんの恨みがそれだけ深かったんだろう。この結果に高笑いでもしているんだろうか?


「嫡男を人質に寄越すとはな」


「今川め。いっそ最後まで潰し合えばいいものを」


 家中の反応はあまり良くない。先日には氏真さんが臣従の証としてほぼ単身で清洲にやってきて驚かせているが、斯波と織田にとって敵であることに変わりはない。古参の人なんかは今川なんぞ要らないと言いたげな人もいる。


「信濃は手を打たねば年内に飢える者が出かねません」


 流民対策と信濃の後始末と飢えの対策がいる。戦場付近では村も荒らされているようだし、両軍の兵に奪われて食べ物がないところもあるそうだ。


 落ち武者狩りはそんな地元の領民の怒りもある。


 信濃・遠江・駿河。ここらが織田領になる予定だが、基本としてこちらから臣従しろと声を掛けないことは今までと同じだ。小笠原さんの弟とか臣従を申し出た人には相応の対応をするけど、あとは放置する。


 駿河と遠江は今川が意地でもまとめるだろう。


「致し方あるまいの」


 最終的には義統さんが決断をした。このままというわけにいかないからね。信濃でいえば木曽家の領地は無事だ。あとは南信濃に通じる奥三河辺りを使って支援物資を送るしかない。


 あと念のため三河の最前線は警戒する必要もある。武官と警備兵の増員を送り、現地で兵を臨時に集めて遠江の暴発がこちらに来ても問題ないように支度しなくては。


 忍び衆の報告では現地は地獄絵図だそうだ。甲斐戦線では身延の辺りが戦場なので穴山家が後始末をするんだろうが、信濃戦線は小笠原と武田の領境近辺なので痛み分けということになるので後始末はそれぞれにするだろう。


 両軍ともに撤退はしたけど、途中で暴れたり略奪する者もいれば落ち武者狩りで討たれる者もいる。治安も悪くなるし人心も荒む。


 まさに戦国の戦というところかな。


 元の世界だと川中島の戦いとか桶狭間の戦いは、戦国ロマンのひとつとして人気の合戦でもあった。ただ、リアルにこの時代を生きる身としては、恐ろしくもあり愚かしくもあるとしみじみと感じる。


 今川義元はこれで満足したんだろうか? 


 ほんとやり場のない憤りを感じる。




◆◆

 駿甲すんこうの戦い。


 駿河の守護大名である今川義元と、甲斐の守護大名である武田晴信による戦の総称である。時期は天文二十年から二十三年まで続いた。


 武田と今川は晴信の代以前から同盟関係にあったものの、武田の先代信虎の娘である定恵院じょうけいいんが亡くなると、義元は武田との同盟関係の見直しをしている。


 これには西の織田と東の北条に挟まれた今川が、因縁ある織田と対峙していくには更なる力がいるとの判断があったらしく、駿河・遠江と甲斐・信濃を制して織田と対峙するという構想が明らかになっている。


 なお、天文十八年の北条長綱の尾張訪問以降、北条が織田との関係強化に腐心していたことも今川を追い詰めた原因と考えられる。織田と北条は、今川がいずれかを攻めたら互いに兵を挙げるという約束があり事実上の同盟関係だと見ている歴史家もいる。


 さらに北条は天文二十一年に伊豆諸島の伊豆大島にて火山が噴火した際に、島民を救出した久遠に伊豆諸島を譲るという奇策にて、久遠とも友好関係を築いていた。


 結果、東西と南の海を押さえられた今川は次第に追い詰められていたことが各種資料から窺える。


 今川家においては義元の母でもあり尼御台とも称された寿桂尼が、いち早く和睦または降伏を考えていたようで、天文二十三年の花火大会への招待に応じた際に自ら斯波と織田への臣従を申し出ている。


 義元自身は最後まで斯波に降伏して織田に臣従を望んでいなかったとされるが、すでに織田と今川の力の差は歴然としていて苦渋の決断だったとされる。



 天文二十三年十月の駿甲の戦いは例年と同じく甲斐と信濃の二か所にて行われた。


 義元はこれを最後に臣従して自身は隠居をするつもりであったが、今川と武田に翻弄され続けた小笠原長時が極秘裏で織田に臣従をしたことにより、この戦を最後に武田との戦を終わると一方的に決めたことで追い詰められたとある。


 今川も当初からこの戦で終わるつもりであったが、義元は甲斐と信濃をいくらかでも切り取り、その成果も合わせて臣従をと考えていた。ところが信濃は小笠原がそのまま斯波に譲る形で臣従をしてしまったために、今川はここ数年の戦で得た信濃領をすべて失うことになった。


 戦自体は戦国期を通してもっとも激戦だったと言われる結果であった。戦開始直前に小笠原長時の織田臣従が武田方にも伝わったことで、晴信は信濃を失う覚悟を決めており、せめて最後は徹底的に戦うとの覚悟をもって戦に挑んでいる。


 わずか二日の戦であったが被害は甚大で、特に信濃での戦は一日目に小雨の中で双方が共に夜討ちを決行したことで敵味方が入り乱れた激戦となり、被害が拡大したとある。


 当時『東国一の卑怯者』と称されて必ずしも評価されていなかった晴信であったが、駿河・遠江に一時期は三河の半ばまで制した義元と五分の戦をしたことで、その名と武勇を世に知らしめる結果ともなった。


 この駿甲の戦い。歴史家により評価は分かれるが、武田に敗れ今川に翻弄された小笠原の意地の勝利と見る者もいる。


 また、尾張では久遠主導による改革が進んでいて、『尾張だけが近代』とも称されるほど国力に差が出始めていた頃であり、この戦が戦国時代の本来の戦であると語る者もいる。



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