第1359話・それぞれの夜
Side:小笠原長時
日暮れでようやく双方が退いたか。武田方を相応に討ったらしいが、こちらもまた少なくない者が戻らぬままだとか。討ち取られた者も多いようで義元めの本陣も荒れておろうな。
「兄上、今宵は寝ずの番を増やすべきでございましょう。誰が夜討ちを仕掛けてくるか分かりませぬ」
「ああ、任せる。わしは戦下手じゃからの」
進言のまま孫次郎に任せる。いずれにせよ城もない流浪の身には、己の兵など僅かしかおらぬのだ。ここにおる者はすべて弟の孫次郎の家臣と兵だ。そもそもわしは戦で今川や武田に勝とうなどと思わぬ。
孫次郎と家臣らは武田もそうだが、今川方をも疑うておる様子。わしが憎まれておるということか。
「然れど今川が織田に臣従とは……」
こちらの動きを気取られたのか? それとも同じことを考えたのか? いずれにせよ武衛殿の言葉が当たったわけだ。もしかすると先に根回しをしておったのは今川かもしれぬな。因縁の相手だ。降るにしてもそう容易くはあるまい。
「いずれでも構うまい。我らは出ずともよい。すべてわしが臆病なのが悪いのだ。そなたらはわしに従ったことにすればいい。戦で武功を上げるのは織田に臣従してからで良かろう。義元の感状など貰うたところで役に立つまいからの」
孫次郎やわしに従う数少ない者らは、今川が織田に臣従するという話がまことなのかと首を傾げておるが、かようなことは気にする必要はない。
生きて新たな主に仕えればいいだけだ。
さて、戦はあと幾日続くのであろうな。
Side:武田信繁
我らは身延の地で今川方と一戦交えて夜を迎えた。
此度は噂通りに今川方も本気のようで、少なくない者が負傷し討ち取られたようだ。無論、こちらも相応に敵を討った。されど、かように死者を出して今川方は収まるのかと案じたくなるほどだ。
「然れどまことでございましょうか? 小笠原が織田に降るなどと……」
戻らぬ者が多いことで士気が低い。さらに戦の直前に入った『小笠原長時、織田に臣従致して候』という知らせに皆が驚いており、夜を迎えた今でも半信半疑なほどだ。
「事実ではないかとは思う。武衛殿は内匠頭殿以外は家臣を持たぬと明言しておられた。それに追い詰められておったのは我ら以上だからな」
わしの言葉に皆が黙る。今川方と通じておるやもしれぬ穴山殿の顔を見る限りでは知らなかったように思えるが、さていかがなものかな。
まさか小笠原長時が、今川を追い詰め、我らをも追い詰めるとは、なんとも皮肉なことよな。
南信濃を織田に獲られると今川は終わる。織田と争うためには是が非でも甲斐と信濃が要るのだ。駿河遠江ではとても戦にもならぬであろう。あの地は海に面してはおるが、平地は少ない上に土も悪く、尾張ほど豊かな土地ではない。それでも我らの甲斐とは比べるべくもないがな。
もっとも南信濃が織田に降ると武田家の信濃領も終わる。信濃先手衆は離反する恐れがある。いや、離反するであろうな。繋ぎ留めるほどの力がもはや武田には無い。人質はおるが、人質を殺せば織田の不興を買い、甲斐攻めの口実にされかねん。
「叔父上、戦とは難しいな」
そこまで考えを巡らせておると、此度の将である嫡男の太郎が口を開いた。既に昨年信濃で初陣を済ませたとはいえ、この難しい戦を差配することには無理がある。ゆえにわしが支えておるが、太郎はそれを理解して口惜しげな様子か。
「最後まで戦うしかあるまい。相手が退かぬ限りはな」
ここで退けば穴山家は今川に寝返りかねん。もっとも守り抜いても結果は同じかもしれぬがな。
信濃は失うと思うたほうがいい。今川はいかがする? 甲斐に専念して攻めてくるか? 織田が動かぬとしても穴山と小山田次第で武田家は終わりだ。
それに……万が一、今川が織田に降りでもすれば……。
考えても仕方ないか。今はこの地を守ることが先決というもの。
Side:太原雪斎
攻め切れなんだか。若君がこの場におられれば良かったのだが、おられぬ分だけ士気が上がらなんだ。
「和尚、明日はいかがするのだ?」
「岡部殿次第でございましょう」
とはいえ誰ひとりとして離反する者がなかったことには感謝せねばならぬ。織田への臣従を隠しておったわしが出過ぎると、諸将が面白うないはず。甲斐攻めの将である岡部左京進親綱殿に万事任せるしかない。
「攻めるしかあるまい? 朝駆けなどいかがだ? 相手を休ませてはこちらが不利。籠城でもされたらたまらぬ」
織田への臣従に関してはわしの口から明かしたが、戻って御屋形様に問うてみるまでは、一切疑念を挟むことを岡部殿が禁じた。
『仮に事実だとして好き好んで降るはずもない。何か事情がおありなのであろう。我らが御屋形様をお支え出来なんだ罪もある』と、激高する者らをなだめて、唯一事情を知るわしを庇ってくれたことには驚いた。
おそらく一番怒っておるのは岡部殿かもしれぬ。されどこの戦を勝つためにすべては動いておるのだ。
軍議も終わり、わしは己の陣に戻りて僅かばかりの休息を取る。驚いたことにそこに訪ねてきたのは岡部殿であった。
「和尚、回りくどいことは好まぬ。正直に教えてもらいたい」
尾張と今川のこと。不利なのは皆が既に悟っておること。されど岡部殿ですら今の織田の恐ろしさを知らぬ。
問われた以上はすべて話さねばなるまいな。
「……然様であったか……。いつの世も非情なものだな」
国力どころか国の在り方から今川とは比べようもないほど違い過ぎて、戦すら真面に出来るか怪しい。斯様な事実に岡部殿は怒ることなく悲しむように空を見上げた。
「拙僧の首で良ければ差し上げよう。すべての責めは拙僧にある」
「そなたになにかあれば誰が御屋形様を支えるのだ? 織田と交渉するのに和尚は欠かせぬはずだ」
言葉も出ぬ。岡部殿もまた今川と御屋形様を誰よりも支えておられたのだからな。
「花火の噂を聞いた頃か。あの国を相手にするのはいかがなものかと、わしも思うようになった。されど因縁ある限り、誼も結べぬ。織田の勢いが落ちるのを願っておったのだがな」
そう、因縁ある織田を認めるようなことは口に出来ぬ。それ故に今川は最も重要な時機を見誤った。岡部殿も気づいておられたか。
「若い者は残さねばなるまい。織田に降るとしても家臣を召し抱えるくらいは許されるのであろう?」
「領地は召し上げとなるが、俸禄は出る。このまま二か国をもって降れば、相応の家臣は要るはずだ」
「残すと厄介な者と年寄りを前に出すしかないか。斯波家の先代に勝ったという自慢ばかりの煩い者が多いからな」
岡部殿は責めを自ら負う気か。御屋形様のために。
誰よりも織田に降るのが嫌なはずなのだがな。
申し訳ない。ただ、その一言に尽きる。
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