第1357話・後に引けぬ戦

Side:武田晴信


 今川との戦に備えて信濃に入った。皆の顔色は相も変わらず良うない。誰かが裏切るのではないか。さような疑心に満ちておる。


 わしは己の不甲斐なさに苛立つが、それを見せるわけにはいかぬ。


「御屋形様、尾張めの真田より文が届いております。火急の上申じょうしんとのこと!」


 わざわざ甲斐から早馬で文が届いた。この大事の前に何事だと思い文の封を切るが……。


 『小笠原長時、次の戦を最後に織田に臣従を致して候』、慌てて書いたのであろう。その文には小笠原長時がすでに根回しなども済んでおり、最後に今川と共に戦をして信濃を織田に差し出すと書かれてある。


「御屋形様……」


 我が命運は今川ではなく小笠原により尽きたか。奴の林城を奪い、あと一歩のところであったものを。これも乱世の習いということであろうな。


 悔しさに文を握りしめてしまった。されど今川により甲斐を奪われるよりは、一度は勝った小笠原の策で終わるならば仕方ないかと安堵しておるところもある。


 あの男も乱世の武将であったか。敵ながら天晴。すべてを投げうって一矢報いる道を選ぶ。なかなか出来ることではない。


「皆を集めよ」


 西保三郎を尾張に出したこと、あれがここで生きる。この戦がいかがなろうとも、その後の甲斐がいかがなろうとも甲斐武田は残るのだ。


 真田もまた惜しい男であった。奴を尾張に出したことで武田は残るが、信濃におれば今よりはよかったのかもしれぬ。


 悔いは幾らでもあるか。


「なんと……」


「あの男、この期に及んで……」


 驚く者、苦々しげに語る者。様々だ。


 小笠原長時の織田臣従。この意味をすぐに理解出来ぬ者も多いか。南信濃は斯波領となろう。北の村上も斯波と血縁があるはず。ひとまず争うことはするまい。これで今川が信濃に兵を出す名分が消えるが、隣に織田が来るということの恐ろしさをこの者らは理解しておらぬ。


 小笠原の言い分をそのまま呑むと、信濃で織田はこちらを攻めてくることもあり得る。あとは今川と武田のいずれを先に降すか。それだけの違いとなろう。


「皆の者、これが小笠原長時と今川との最後の戦である。今川なぞ呼び込んだ小笠原長時を許すな。此度は勝敗を必ずつけるぞ」


 真田と望月は前に出せぬな。こちらが織田と交渉する際に役に立つ。


 小笠原長時の知らせ、おそらく今川にも知れておろう。向こうも此度は本気でくる。厳しき戦となろうな。


 典厩が尾張で父上に言われたことがそのまま当たってしまったな。家臣をまとめるだけでわしはなにも出来なかった。飯富兵部には逃げを打たれ、穴山とて今川と通じておるやもしれぬ。


 武田は織田には勝てぬかもしれぬ。されど、今川と小笠原にだけは負けぬ。たとえこの命と引き換えにしても。


「この先いかがなるとしても武功は決して裏切らぬ。織田にみせてやらねばならん。我らを軽んじると無疵むきずでは済まぬとな。よいな!」


「ははっ!!」


 わしは負けぬ。この戦だけは。なにがあってもな!




Side:今川義元


「武田も気づいたのやもしれぬの。此度が最後となること」


 物見の知らせでは武田方は今までにない様子とのこと。小笠原長時めが臣従を隠さずにおいたのか、それともいずこからか漏れたのか。分からぬがな。それとも彦五郎の懸念が当たったか?


「皆に言うておくことがある。小笠原殿がこの戦を最後に尾張の織田殿に臣従をするとのこと。それをもってわしも織田殿に臣従をすることにした。すでに斯波と織田とは話がついており、嫡男の彦五郎を尾張に行かせた。これが最後の戦である」


 明日には武田との戦だ。すでに布陣を済ませた軍議で、かようなことを言われるなど仰天ぎょうてんであろうし、もうした大将も日ノ本で初めてであろう。誰もが驚き信じられぬと言いたげだ。無論、小笠原殿もな。


 まさか同じ策で動いておったとは思うておるまい。


「フハハハッ、御屋形様がかような戯言で場を和ませるとは思いませなんだ」


 静まり返った陣内で最初に声を上げたのは岡部五郎兵衛元信か。信じなかったか。


「五郎兵衛、事実じゃ。最早、織田とは戦えぬ。武田より先に動かねば今川家は四面楚歌となる。それだけは避けねばならぬのじゃ。遠江衆、そなたらは斯波と因縁ある者もおろう。この戦の武功次第で斯波と織田に取り成す。心してかかれ」


 小笠原殿と信濃衆もおるので口には出せぬが、一言でいえば間に合わなかったということ。こちらが思う以上に織田は大きく強くなる。


「聞いておりませぬ!!」


「御屋形様! 我らはまだ戦えまする!」


 幾人もの者が声を荒らげた。思えばわしの前でかようなことは初めてかもしれぬ。それが良いのか悪いのか分からぬがの。


「ならばわしの首でも取って織田と戦をするか? 内匠頭は信義に反する者に厳しい。東国一の卑怯者と謗られる武田のようになるぞ。強き者を認め従うのもまた世の常。公方様や親王殿下すら尾張を認め頼りにされておる。それに異を唱えていかになるか分からぬのか?」


 幾人かはわしに従えぬと領国に帰ることも懸念したが、誰も席を立たぬか。小笠原殿は信じられぬ顔をしておるわ。まさか同じ策を考えておったとは、夢にも思うておらなんだのであろう。


「この戦で武功を上げよ。さすれば各々に道は開ける。わしが必ず開いてやる」


 戦が物事を決めるのはすでに古いというのか? 織田は一貫しておったな。戦を避けて商いや品物の流れで戦う。


 異を唱える者がおらぬことを見計らい、最後の戦の算段さんだんを告げる。先手せんてそなえ…。今後、逆らいうる者はなるべく潰しておかねばならん。


 勝てばよいのだ。織田も軽んじられぬ。そういえば信じよう。たとえ偽りであったとしても…。織田はすでに武功だけでは重用はされぬ。領地を守り奪うことしか出来ぬ者など使えぬと考えたのであろう。


 小笠原殿は前に出る気はないようだな。信濃衆も顔色が変わった。むしろ遠江衆に焦りが見えておるわ。


 勝っても負けてもかように先がない戦など初めてのこと。誰もが戸惑い迷うておる。


 されどな。武田は止まってくれぬぞ? 死にたくなくば戦うしかないのだ。戦場に足踏み入れた身で逃げ帰るという決断が出来ぬ限りはな。


 腰抜けと笑われとうないというのが皆の本音にあるからの。




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