第1354話・恨みの一念

Side:太原雪斎


「此度、我が主は信濃守護職を公方様にお返しし、斯波武衛様のお許しを得て、尾張の織田内匠頭様に臣従致すことに相成あいなりもうした。つきましては武田との戦、此度にて最後と致す所存。何卒なにとぞ御了見ごりょうけんほど、良しなにお願い致しまする」


「なっ……」


 小笠原家の使者の言葉に思わず耳を疑うた。


 謀られたのか? 偶然か? 今川家が武田と戦をしておる名目は、信濃小笠原家の要請によるものぞ。これにて我らは信濃進出の名目を失うことになる。


「信濃守護はいかがなるのだ?」


「はっ、公方様に於かれては斯波武衛様を任じるとの仰せであったと伺っております。これ以上無用な争いを広げるのは望まぬと」


 御屋形様の問いに使者は淡々と答えておるが、拙僧には小笠原長時の執念。その様子がありありと見えるようだ。


 誰の知恵かは分からぬ。されど軽んじられ続けた小笠原家の執念が動かしたのは明らか。追い詰められておったのは小笠原も同じ。軽んじるべきではなかった。


 小笠原長時とは尾張で寿桂尼様と若殿が会われておる。その際に一切かような話は無く、既に戦の支度をしており、数日中に出陣するというこの時に告げてくるとは。


 恨みは深いと見える。小笠原の使者は感謝の口上を述べて下がったが、拙僧には恨みの言上ごんじょうにしか聞こえなんだ。


「まさか小笠原如きに先手を打たれるとはの」


 御屋形様のお言葉に力がない。織田か武衛殿がこちらの動きを漏らしたのか、それともまことに偶然なのかは分からぬ。


 おもきを於くのは誰が謀ったかではない。小笠原長時がそれを受け入れ動いたことだ。最早、我らには勝っても負けても織田に降るしか道はないとみえる。




Side:寿桂尼


 まさか信濃小笠原が先に織田に降るとは。してやられたとみるべきでしょうか? 倅と雪斎和尚、それと私と彦五郎と朝比奈備中守で、今後のことを決めねばなりません。


「おかしな話でございまするな。戦をしておるというのに、いずれが先に臣従するかを競うておるとは」


 尾張より戻ってからというものの、彦五郎は以前よりも父親てておやに対して遠慮が無くなりました。思うところがあるのは理解します。されど、もう少し言葉を選んでほしいところです。家長、当主が如何に父親てておやであろうと、わきまえる分限ぶんげんと言うものがあるでしょう。


 懸念は小笠原殿の不満や話が武衛殿や内匠頭殿に伝わっているということ。今川家は臣従をしても小笠原の後背こうはいとなり、苦しい立場となりますね。


 こちらは小笠原の告知があったとはいえ、今更、戦を止めるとは言えません。そもそも城も持たぬ小笠原殿と今川家は違うのです。家中を織田に臣従でまとめることは至難の業。


 それに武田にも恨まれているのです。一度戦で勝ち、倅の力を内外に示さねば今川家はいかがなるか分かりません。


「彦五郎、そなたそこまで申すならば、なんぞ考えでもあるのか?」


「某が先に尾張に参りましょう。臣従の証として」


 なっ……。彦五郎、そなたは……。


「戦が上手くいけば良し。行かぬ時は某が尾張で今川家を残しましょう。いずれにせよ臣従の証を示さねばならぬのです。小笠原より先に降ること相違なき意を見せる必要がございまする」


 織田は人質を求めません。されど、頼る者や妻子を尾張に送る者はおるはず。臣従の証としてなら受け入れてくれるはずですが……。


「武勇は要らぬと申すのか?」


「そうは申しておりませぬ。されど某か父上のいずれかが先に動かねば、仮に武田が我らや小笠原と同じく織田に臣従をはかっておれば、いかがするのでございまするか? あの国を見るとあり得ぬとは言えませぬぞ」


 この最後の戦。彦五郎にとっても最初で最後の将としての武勇、いさおしの場になるかもしれないもの。それは他ならぬ父親てておやから嫡男へのせめてもの贈り物でした。


 彦五郎もまたそれを理解しているはず。それでも……。


「彦五郎、そなたから見て久遠一馬なる男は如何な男であった?」


「いけませぬぞ、父上。内匠助殿にござる。某ならあの御仁を相手に戦を仕掛けようとは思いませぬ。天に刃を向けるほど驕っておりませぬ故」


 静かな中、近くの寺の鐘が鳴りました。


 勝つか負けるかではないのです。かの者は尾張の要であり、光となります。皆が、かの者に乱世を終わらせる夢を見ておるのです。敵となるなど愚かなこと。


「良かろう。書状を持たせる。見事役目を果たせ。それと備中守、此度はそなたを西の抑えとする。彦五郎を三河まで連れて行け。名目は三河の抑えを見分すると言えばよかろう」


「ははっ、畏まりましてございます」


 自ら最初で最後の武功の場を捨てた彦五郎も辛いでしょう。されど、今川家を残すには小笠原に後れを取るわけにはいきません。


 この場の誰もが無力な己を恥じて、己に怒りを感じているのかもしれませんね。




Side:久遠一馬


「アーシャ様!!」


「みんな、しっかり学んでた?」


「はい!」


 アーシャの産休が明けて、学校に行くというので同行した。文化祭とかはアーシャも来ていたし、たまに立ち寄ることはあったけど、それでも子供たちは嬉しそうにアーシャを出迎えた。


 行啓の影響はここにもある。今まで通っていなかった元国人の嫡男とかが通うようになった。おかげで学校の寮はほぼ満員となり、追加で寮を建てるか検討しているところだ。


 やはり権威の裏付けというのは影響が大きい。


 そうそう、親王殿下に盃を許されたこと。この影響がまた格別大きい。それだけ異例のことのようだった。天盃の作法なんて聞いてもいなかったしね。京極さんからは後で、まさか必要になるとは思わなかったと謝罪されたけどね。


 睡眠学習でも最低限の作法は覚えたんだけどねぇ。そっちも天盃の作法なんて入れてなかった。身分的にあり得ないというのが常識だからなぁ。


 少し話が逸れたね。学校では生徒が増えたことで授業の数を増やしたらしい。ウチのみんなも授業の機会が増えるようで、忙しくなると嬉しい悲鳴だ。


「やっぱり学校は賑やかな方がいいね」


「それはそうよ。これからもっと賑やかにするわ!」


 元の世界の学校を思わせる賑やかな様子に、思わずアーシャと顔を見合わせて笑みが零れる。


 図書寮と写本の件も、学校を視察された親王殿下や公家衆が必要性を理解してくれたことで、今まで以上に進むだろう。


 もっとも現状だと来年の譲位で忙しいみたいだけどね。


 今日は久々にオレも授業をする。授業内容は商いのことについてだ。オレたちの仕事を子供たちに知ってもらう。こういうのも評判がいいんだよね。


 東では今川と武田の最後の戦がもうすぐ始まる。厄介なことにならないといいけど。




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