第1353話・それぞれの明日
Side:北条幻庵
「あれは関東もまた呑み込もうぞ」
尾張より戻られた殿の言葉に皆が息を呑んだ。
異を唱える者はおらぬ。織田より教えられた梅酒は、今や相模の名物として諸国から引く手数多だ。織田に譲った伊豆諸島の神津島などは一気に湊が出来て、多くの船が立ち寄る島になった。
北から来る久遠家の船は鮭や昆布などを下田で降ろしてくれるので、それを目当てに関東ばかりか駿河や甲斐からも商人が来るのだ。
その力、決して我らに無いものであることは皆もよく知っておろう。
「鎌倉の世から関東は畿内とは別の
関東は今も関東の公方たる古河公方と、越後におる関東管領の上杉を中心に争い動いておる。ところが、殿は最早さようなことをしておる世ではなくなるとお考えのようだ。
公方様からは古河公方や関東管領には一切触れずに、お褒めの言葉をいただいた。この意味を少し考える必要があろう。無論、そこまでお考えではなく、尾張に駆け付けたことに対するお褒めの言葉であることもあり得るが。
来るの。織田は必ずや関東に来る。かの者らは尾張ばかりではない。日ノ本の明日を見ておるのだ。今来ずしていつ来るというのだ。
「これはまた、なんとも味わい深い茶でございまするな」
「まだ我らの知らぬものが幾らでもあるというのか? 恐ろしいの」
土産にと頂いた品の中には、煎茶という新しい茶があった。淹れ方を習い聞いて戻られたようで、殿が自ら皆にそれを振る舞ってくださったが、心が落ち着く味わいの茶に恐ろしさすら感じておる者が見受けおるほどよ。
同じ世に生まれたのは天命かの? 新九郎などは薬師殿の薬のお陰にてかつてと違い、立派な嫡男となった。北条は北畠や六角のように織田との同盟でよいのか。それとも臣従すべきか。考えることは幾らでもある。
されどまずは……。
「殿、ところで甲斐と駿河の様子がやはりおかしゅうございます」
「東西には動くまい。あのようなものを見せられて織田を攻めるなどあり得ぬ。また東を攻めれば織田が動くという約定は今も続いておるのだ。関東にも来るとは思えぬ。ならば互いが攻め合うのであろう」
織田との誼、日に日にその価値が大きくなっておるわ。故にこちらは関東に専念出来る。織田は、久遠殿らは関東をいかに見て、いかにしたいのであろうか。
もう少し近ければの。本音も言えるのじゃが。
Side:朝倉義景
家中は面白うないと言わんばかりの者が多い。かつての主家たる斯波と、同じような立場だった織田の躍進は聞きとうないらしいな。
「そもそも我らは美濃斎藤家にすら勝ちきれなんだ。肝心の斎藤家は健在なのだ。あまり欲をかくべきではないのではと思いまする」
その者の言葉に家中の長老らは疑心を隠さぬ顔をした。謀叛人の倅と未だに蔑んでおるせいか。孫八郎景鏡。年寄りの機嫌を取るようなことをしても己の立場が変わらぬと開き直っておるのは変わらずか。
「殿、宗滴殿は連れ戻すべきではございませぬか? 何故、尾張に置いてこられたのです。聞けば歩けるとか」
困ったものだ。織田の力も理解しておらぬ。以前にも言うて聞かせたのだがな。
「宗滴には宗滴の考えがある。気になるなら己で直に聞いてみよ。わしは宗滴の思うままにさせるつもりだ」
年老いた宗滴をまだ働かせる気か? それとも己らの神輿にでもする気か? 帰らぬのには訳がある。そんなことも分からぬのか? それとも分かりとうないのか…。
ふと宗滴の遺言を思い出した。宗滴をもってしても越前をお返しすればよいと言わしめるのが今の朝倉家だ。
戦をして勝つか負けるかではないのだ。公方様や親王殿下に於かれても、尾張を認め頼りとされておる。戦などしてみろ。喜ぶのは若狭の管領殿だけであろう。
誰もそれを分からぬのか。認めようとせぬのか。いずれにしても難儀なことだ。
Side:近衛稙家
尾張より戻りて、殿下と共に内裏に参内した。旅のことを申し上げる殿下の様子に、主上がお喜びになられておるのが分かる。
武士も僧も民も皆が共に助け合い暮らしておる。直に見ねば信じられぬことよ。
「そうか。それほどの国か」
これで来年の譲位は決まった。管領のことなど僅かに懸念はあるが、止めるほどのことはもうない。
織田と話して、手に入りにくい品々は尾張で
懸念があるとすれば、主上や殿下のお心の内で内匠助があまりに大きゅうなりすぎておることか。あの男に限って間違いなど起こすまいが、然れども人の子。あまり過度に信じすぎるのは危ういのじゃがの。
もっとも一番困るのは内匠助であろうな。己で天下の差配すらしようと思うておらぬくらいじゃ。主上や殿下の御信任がかようにあると知れば、困るのが目に見えておる。
己がおらずとも困らぬ国をつくる。未だかつて、かように考えた者がおったのであろうか?
かような者だからこそ吾も信じることが出来るのじゃがの。
Side:安宅冬康
「そうか、大儀であったな」
尾張のこと兄上に申し上げると、兄上は満足げな顔をされた。されど、三好家としては出遅れたと思えてならん。
「兄上、
「神太郎、これから言うこと他言無用ぞ。そなたも来年には譲位があるのは知っておろう?」
「はっ、公家衆もそのことをよう話しておりました」
「譲位した帝が尾張に御幸されるということが内々に決まっておるのだ。そもそもは譲位も元は帝が尾張をご覧になりたいとの願いから決めたという話だ」
なっ。かようなこと聞いておらぬぞ!?
「行けるならば来年の御幸はわしが行く。そのつもりよ。すでに世は上様と尾張を中心に動いておる。わしは上様に忠義を誓ったのだ。それに相違ない。わしは己の天下など望んでおらぬ」
信じられぬ。いや、事実なのであろう。朝廷があれほど動き、尾張との誼を深めんとされたのだ。
「……畏まりました。出過ぎたことを申してしまいました」
「いや、よい。織田との話。さすがはそなただと驚くばかりよ」
「はっ、織田方もこちらのことが分からず、いずこまで関わって良いのかと思案しておるようでございました」
「向こうも苦労をしておろう。こちらもいずこまで頼ってよいのか分からなんだ」
尾張では御所の修繕に譲位に関わる普請、それと都のことをいろいろと話した。兄上からは一切任されておったが、織田の存念でも聞ければと思うたのだ。
成果は十分ある。これで少なくとも都を追われて討伐されるようなことはなくなった。
勝手なことをしてとお叱りを受けるかとも思うたが、無事に役目を終えることが出来て安堵するわ。
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