第1352話・因縁と親子と憎しみと
Side:太原雪斎
「父上も和尚も今川を滅ぼすおつもりか?」
尾張から戻られた若殿の言葉に御屋形様が驚かれたのが分かる。
今川家において御屋形様に逆らえる者はおらぬ。例外があるとすれば寿桂尼様だけ。それは若殿とて同じこと。御屋形様に異を唱えるなど初めてのことになる。驚かれるのも無理がないことか。
「分かっておるわ。故に臣従をすると言うたであろう」
若殿をしかるでもなく問いに答える御屋形様に、やはりかつての力強さはない。以前ならば叱りつけて謹慎でもさせたかもしれぬ。嫡男とはいえ、かような物言いを許す御方ではなかった。
「あれほどに栄え、力付けた尾張のことを隠し、家中に知らせなんだことは父上の失態でございます。さらに今川家は助けるという名目であるはずの小笠原殿にまで恨まれておりまする。随分と下手を打ったと呆れるばかり、最早哀しゅうなりもうした」
言い分は理解する。されど御屋形様には御屋形様の言い分がある。いかんともしようがなかったのだ。斎藤家のように臣従するにも、北畠のように友誼を求めるにも因縁があって無理なのだ。
「朝倉殿は当主自ら尾張へ行き、因縁を軽うしようと努めておられます。また北条殿も自ら尾張へ足を運んでおりました。公方様は武衛殿や内匠頭殿、久遠殿とも随分と親しい様子。ああ、親王殿下は久遠殿に天杯をお許しになられましたな」
「若殿! それはまことで?!」
御屋形様は一切口を開かずに、若殿を見つめ聞いておられるが、若殿の言葉に取り乱したのは朝比奈殿だ。近習すら人払いしておって、今おるのは他に寿桂尼様だけ。まさに尾張を知る者以外はすべて外されたのだ。
「まことです」
若殿の代わりに答えた寿桂尼様のお顔は優れぬ。若殿による御屋形様への無礼を止めもせぬということは、言い方の良し悪しはあっても思いは同じというところがあるのやもしれぬ。
「武衛殿と内匠頭殿は果たして父上と今川家の臣従、喜んでおるのでしょうか?」
「若殿、先程より御言葉が過ぎまするぞ!」
親王殿下が自ら久遠殿だけに盃を許した。そのことに朝比奈殿が驚愕して口を閉ざす。されど若殿は止まらぬ。さすがに誰かが止めねばならぬと口を挟むが、若殿は拙僧を見ても怯むこともなく、相も変わらぬ穏やかな笑みを浮かべておられるが、目が言うておられる。『己は何をしておったのだ?』と。
「彦五郎、下がりなさい!」
「これだけは申し上げておきまする。最後の戦、上手く行かぬ時はいかがするおつもりでございまするか? 恨みと因縁ばかりの今川。東国一の卑怯者と謗られる武田と同じく、厄介者にならねばよいのですが」
親子で争うなど、もう見たくもないとお考えの寿桂尼様が止めても、若殿は止まらなんだ。
言いたいことを告げると、そのまま若殿は下がっていかれた。
Side:武田信繁
太郎が兄上に人払いを頼むと兄上は応じた。その様子に並々ならぬものがあると察したのであろう。この場におるのは兄上と太郎とわしの三名のみ。これならば太郎がなにを言うても大事にせずに済む。
「父上! 我が甲斐源氏武田が東国一の卑怯者と呼ばれるとは如何なる訳でございますか!! 更には祖父たる三条公に尾張にて、『甲斐武士は礼儀も知らず宴の作法も知らぬ鄙者に甘んじるを良しとするか?』と、お叱りを受けましたぞ!」
怒りが収まらぬ太郎にも兄上は動じぬ。
「なら、そなたが武田家を継いでみるか?」
その一言には太郎も驚いたが、わしも驚かされた。
「太郎よ。一つだけ言うておく。物事を見極めるときはなるべく多くの者の話を聞け。喧嘩の場合は双方から別々に話を聞くのだ。無論、見ておった者からもな。三条公のおっしゃられたこと、一々もっともであろう。されどな、真理の一つでしかないのだ」
「話をはぐらかさないでいただきたい! 武士として恥じる行いをしておいて、なにが甲斐源氏でございますか! 最早、恥ずかしゅうて名乗れぬ家名になっておりまする!」
若さというものは無謀とも無知とも思えるな。太郎の怒りは理解する。されど、甲斐はそれではまとまれぬのだ。太郎はまだそれを知らぬ。
もとより勝手ばかりしておった国人をまとめたのは父上なのだ。その父上を追放したのも国人らだ。若かった兄上に出来たことなど高が知れておる。
「殊更に言わねば分からぬか? 面目にも内と外がある。わしにも甲斐武田家にも外を気にする余裕などないのだ。国人どもは貧しく飢えておる今しか見えず、己の為したことを
そうなのだ。国人など己に都合が悪い主君には従わぬ。多少勝手をしたとて戦で勝てば責めを負わせることすら出来ぬ。
父上の追放すら、家臣や国人らが勝手にしたこと。にもかかわらず今では父上を追放したことを非難する家臣や国人がおる。己らは止めもせず諫めもせぬどころか、父上の追放を喜んでおったというのにな。
「少し頭を冷やせ。わしとて好きでかようなことをしておるわけではないわ」
もともと兄上と太郎はあまり仲がいいとは言えぬ。親子とはいえ、それぞれに近習がおって家臣もおる。それが当然なのだがな。
武田家は父上の追放以降、疑心に満ちておるのだ。兄上もまた一族や嫡男すら疑わねばならぬ立場ゆえ、嫌気が差しておると言うても過言ではない。
勝手ばかりする家臣を討伐出来るのならば、兄上がとうの昔にやっておるわ。
Side:小笠原信定
「孫次郎、済まぬな。そなたまで城と所領を失うことになった」
信濃に戻ると兄上はまことに織田に臣従をするべく支度を始めた。他の者からは嫌われることもある兄上だが、わしにとっては決して悪い兄ではなかった。
「良いのでございます。いずれにせよ武田に奪われるか、今川に臣従を迫られるか。二つに一つ、ならば織田に従い生きるのも一つの策でございまする。此度、某もお供をして尾張の在り様を目の当たりにして理解致しました」
松尾城で戦支度をしながら、これからを相談する。
わしも見たことはないが、今や都や畿内よりも栄えておると公家衆が申しておった国だ。世辞もあるにせよ、北条ですら当主自ら来ておったのだ。東国広しと言えど勝てるような相手などおるまい。
なにより公方様や親王様がお認めになられておる国だ。臣従して恥入ることなどなにもない。
「織田家中への挨拶も一通り終えた。これで今川と武田に一矢報いることが出来る」
辛かろう。守護代家の家柄である織田に降ることは。されど、兄上は最早、信濃衆を信じることが出来ぬらしい。
「武田と今川もいずれ織田に呑まれるやもしれませぬな」
「武衛殿から言われたの。同じ家中となるやもしれんと」
ああ、あの言葉は忘れられぬ。兄上はそれすらも覚悟の上か。今川と武田。確かに戦には強い。わしも決して戦上手とは言えず、勝てる相手ではない。されど、尾張は間違いなくそれ以上なのだ。
「許せぬ。許せぬが、武衛殿や内匠頭殿の面目を潰すわけにはいかぬ。諍いは起こさぬよ」
斯波と織田。思えば両家とて楽をしておるわけではあるまい。広がり続ける所領と増える家臣。国の治め方を変えたのも、今までと同じだと駄目だと考えたからだと聞いたほどよ。
姉小路殿や京極殿をみれば、臣従をしても肩身の狭い思いはするまい。
「わしもの、尾張で学んだ。人の上に立つ者は、相応の器を持つ者でなくばならん。無念だが、わしはその器ではないとな」
器か。確かに分かる。武衛様と内匠頭様は別格であられた。武田と今川が小さくなっておるのだ。治めるべき者が治めれば、世は安泰なのかもしれぬ。
奪われる前に譲った。その決断が出来ただけでも、わしと兄上は良かったのかもしれぬ。そう思うしかあるまい。
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