第1342話・老いも若きも

Side:朝倉宗滴


「そうてき様、お上手でございます!」


「武士たるもの刃物は扱えなくてはならぬからの」


 孤児院の子らと共に渋柿の皮をむく。久遠家に贈られたもののようだが、皆でこうして皮をむいて吊るすのだとか。


 幼い子らが手を切らぬように気を付けてやりながら皮をむくのも楽しきものじゃ。


 思えばわしは、かような日々を送ったことがないと今更ながらに思い知らされる。実の子は出家させてしまいおらぬ。養嗣子ようししとして迎えた孫九郎はすでに相応に大きくなっておったからの。孫九郎の倅はおるが、忙しさのあまり相手をしてやれなんだ。


 わしは……、道を誤ったのではないかと近頃思う。


 朝倉の家を守り確かなものとするべく生きてきたが、子や孫とも呼べる者らを育てることには重きをおかなかった。


 その結果、今まで先達の皆が必死になり築き上げた朝倉を当たり前だと考える愚か者が増えてしまった。


 久遠家ではなにより子を育てることに重きをおいておる。そのような姿を見ると、己の愚かさに恥入るばかりだ。


「申し訳ございません。宗滴様にかようなことをして頂きまして……」


「よいのじゃ。大人しくしておれと言われても退屈での」


 ここにおると子らにあれこれと誘われる。それがなにより楽しい。久遠家の者は恐縮しておるが、隠居したとて退屈なだけじゃからの。


 ただ、殿のことは気がかりじゃ。ご苦労をされておろうな。公家衆とは一筋縄ではいかぬ相手。今川とて、最早織田と本腰を入れて争う気はあるまい。


 変わりゆく世において、いかに生き残るか。戦場で勝つより難しかろう。


 されど……、年寄りがこれ以上口を出しては殿の御為にならぬ。若い者らと共に悩み考えて生きねばならぬ。


「宗滴様、これが終わりましたら礼儀作法を教えてくだされ!」


「ああ、よいぞ」


 久遠家の者はよう学び、よう働くの。見習わねばならん。残り少ないこの命で、なにを学び、なにを成せるのか。考えねばならんからの。




Side:寿桂尼


 公家衆の驚き喜ぶ顔が恐ろしくあります。尾張など鄙者の地と言うて憚らぬ公卿ですらそうなのです。尾張の変わりようを理解し、恐れているのは同じでしょうが。


 昨日は蟹江にて職人の品などを見て、今日は津島にて書画を見ております。


 蟹江では刀剣、塗り物や反物、果ては扇子や陶器など、尾張でなくば手に入らぬ品以外でも都に負けぬ逸品が揃っていたと皆、驚いておりました。


 尾張にとって都、畿内からの品は必ずしも必要ではなく、都にとって尾張からの品はなくてはならない品になる。この事実が公家衆には恐ろしいのでしょう。


「これは良いものじゃの」


「まことに」


 津島神社では書画が数多くあります。南蛮絵ばかりではありません。日ノ本の絵もまた多くあり、これほどの絵を一堂に集めて見ることが出来るなど都でもないことだと驚いておる様子。


 国としての在り方が、尾張と他国では違いすぎる。朝廷は武家の争いに口出しなど致しませんが、それすら変わるのではないかと思ってしまいます。


 雪斎和尚と倅は今川の面目と行く末を懸けた最後の戦をするつもりですが、果たしてあれは正しいのか。


 負けるなり、臣従に異を唱える者が武功を上げるなりすれば、引くに引けなくなることも考えられます。小笠原殿もまた今川を疑っておられる。ひとつ間違うと恨みしか残らなくなります。


 私には、今すぐにでも尾張に来て頭を下げるべきだと思えてなりません。


「某も絵を学び、絵を描いてみとうございますな」


 彦五郎は相も変わらず。公家衆との関わりかたを存じておるとも言えますが、今一つ腹の中を見せぬところがあります。今川の現状をいかが見ておるのでしょうか。




Side:大橋重長


 かような日が来るとはな。親王殿下を津島にお迎えして、我ら拝謁出来る身分でない者までご尊顔を拝する機会を得られるとは。武勇だけでは決して成しえぬことであろう。


「留吉。そう固くならずともよい。オレに任せろ」


 滝川慶次郎殿がそう言うと笑みを見せた。


「はい!」


 牧場まきば留吉。元服してそう名乗っておる若い絵師がおる。まだ十代も半ば故、畏れ多いと今にも倒れそうなほど。


 親王殿下が絵をご覧になるということで集められた絵師のひとりだ。描いた絵について、親王殿下からお声がけがあるかもしれぬということで待っておるのだ。


 壮年の絵師が多い中、一番若いのが留吉殿だ。捨て子から久遠家に拾われて絵師として頭角とうかくを現した者。尾張ではそれなりに名の知れておる男なのだがな。


 ほかの者は良いのだが、留吉殿だけはひとりにしておくわけにもいかぬ。久遠家から同じく絵を描くことがある慶次郎殿が共に来ておる。


 ゆるりと絵をご覧になっていた親王殿下が留吉殿の絵の前で止まられた。


「南蛮絵か。……絵師の方の手跡しゅせきとは違う。ここのふたつの絵を描いたのはそなたか?」


 尾張といえど此度の武芸大会で南蛮絵を出しておるのは三名しかおらぬ。絵師の方殿と慶次郎殿と留吉殿だ。絵師の方は女の身ということでここには来ておらぬが、慶次郎が代役としておる。


「手前の絵はここにおる留吉が描いた絵で、奥の絵は某が描いたものでございます」


 やはり南蛮絵は目立つ。殿下が興味を示されたのも当然であろう。


「殿下、その者らは当家の家臣。滝川慶次郎と牧場留吉でございます」


「ほう……」


 慶次郎殿、久遠殿が殿下に問われたことで、相次いで名と身分みぶん身の程みのほどを告げるが、慶次郎殿のことを知っておられるようなお顔をされた。


「両名とも、大儀であった」


「ははっ!」


 しばし南蛮絵をご覧になられた殿下は、ふたりに笑みを見せて一言お声をかけ、次の絵に歩いていかれる。


 留吉殿はなんとかやれたようだな。あまりのことにあとで覚えておるか分からんが。




◆◆

 牧場まきば留吉。牧斎という画号がごうめいの絵師として有名な人物である。


 西洋絵画・水墨画の双方を得意として描いた異色の絵師として知られている。


 生まれは尾張で、実の両親は不明。久遠家が保護した孤児であったとの記録がある。元服の際には久遠一馬と慈母の方こと久遠リリーが、父と母として元服をさせている。


 その才は孤児院で暮らしていた頃から確かだったようで、彼の描いた絵が久遠家の屋台で飛ぶように売れたと伝えられている。


 その名が世に知れたのは天文二十三年の方仁親王の行啓である。年若い彼の絵の出来に方仁親王と公家衆は驚いたと記録があり、同じく絵師として活動していた滝川秀益と共にお褒めの言葉を頂いたとある。



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