第1334話・武田家の現状

Side:三条公頼


「三条公、わざわざお越しにならずともこちらから参りましたものを…」


 清洲城に戻り、夕餉まで時がある。武田を訪ねると、典厩が驚いた顔をしておる。


「なあに、孫に会うておきたくての。かようなことでもなければ会うことも難しい故にな」


 少し話したいと人払いをさせる。典厩と孫の太郎、それと傅役である飯富という男と、尾張詰めの家臣をひとり残すように典厩に囁く。


 典厩の顔がいかんとも言えぬものになる。察するが、吾が言うてやらねばそなたが一番困ろう。


「大きゅうなったの。娘を出したのがつい先日のように思えるというのに」


 太郎は強き目をしておる。知らぬのであろうな。己の置かれておる立場を。哀れでならん。


「太郎よ。そなたは親王殿下か大樹に不満でもあるのか? それとも吾に不満か?」


「いえ、不満などありませぬ」


 驚いた顔をした。嘘はないようじゃの。ということはやはり知らぬとみるべきか。


「いやの、宴も祭りもそなたは笑うことすらない。なにか存念でもあるのかと案じておるのじゃ」


「某は武士らしく武田家嫡男として振る舞っております」


 まだ十代半ば。坂東武者としてはよい育て方をしたのであろうな。されど……。


「のう太郎よ。そなた今川の嫡男を腰の軽い男だと軽んじてはおるまいか? それは違うぞ。こうして顔を合わせた時には、目下の者や若い者から周りに声を掛けねばならん。酒を酌み交わし、話をしてこそ友誼が出来る」


 教え導く者がおらなんだということが、甲斐の現状であろうか。晴信にしても誓紙破りをするなど愚かとしか思えん。体裁を取り繕うこともせぬとはな。露見せねばよいなどと思うたのであろうか?


「いつかそなたが武田を継いだとして困り苦境に陥ったとしよう。友誼もないと手を差し伸べる者が少ないぞ。相手が今川ならばいかがする? 吾はそなたの味方をしても、他の公家は共に酒を酌み交わした今川を良く思うぞ。それが他国の者や公家との付き合いというものじゃ」


 素直に聞く心掛けはあるか。家臣らは顔には出しておらぬが、傅役は内心ではいかが思うておるのであろうかの。まあ、吾には関わりのないことじゃが。


「武門の者として弱みは見せられまい。毅然とした態度も必要であろう。されどな、世の流れはよう見ておかねばならぬ。織田内匠頭や久遠内匠助。そなたはあのふたりが愚か者に見えるか? 内匠助など武功も多く恐れられておるが、皆と笑みを見せて酒を酌み交わしておろう。されど誰も内匠助を軽んじてはおらん。あの者は日ノ本の外に所領がある男。いわば朝廷に属さぬ地を持つのじゃからの」


 僅かに戸惑う顔をした。おそらく傅役や近習の教えと違うのであろう。いかんな。それも間違うてはおらぬのであろうが、それでは尾張を中心とする世では生きていけぬ。


 内匠助は恐ろしい男じゃ。友誼も信義も知り、世の流れが見えておる男じゃからの。聞けば内匠助は十代半ばで日ノ本に自ら来たとか。太郎も今から世を知ればやれるはずじゃ。


「余計なことを言うて済まぬの。されどな、今まで多くの者が武士として生を受けて世に出たが、己の力だけで生き抜き、なにかを成した者は一握りじゃ。武士としては力のある者らであってもの。よう考えることじゃ。典厩にでも世のことの教えを受けての」


 出来れば太郎の本音が聞きたいところじゃが、難しかろう。あとは典厩に任せるしかあるまい。




Side:武田信繁


 三条公にかようなことを言わせるとは。我が身の不徳か。


「叔父上、三条公の申されたこと。まことか?」


「若殿、人の話をそのまま信じてはいけませぬ。公家には公家の事情もありまする故に」


 わしが答える前に、傅役の飯富兵部が太郎に苦言を述べる。それも一理あろう。されど今の世の流れでは殿下の申されたことはいちいちもっとも。


「兵部、三条公の真意を考えることは必要であろう。それに今川にしろ織田にしろ、敵を知らずして戦える相手ではあるまい」


 さすがに黙ったか。されどあまり面白うないのは付き合いが長い故によう分かる。甲斐で長年まかり通っておる教えと違うからな。


「事実であろう。わしはそう思う。巷では武田は東国一の卑怯者と謗られておる。誓紙も破る武田を誰が信じようか? 隙を見せたほうが悪い。それも一理あろう。されどな、ならば我らが偽りを受けて誓紙を破られても文句を言えぬということ」


 太郎の若さでここまで言うては酷だと思う。されど戦で片付く世が変わりつつある。尾張は戦をせずして国を大きくしておるのだからな。


 戦がない世では、信義がない武田では誰も信じてくれぬのだ。利用する者はおってもな。


「典厩様、いささか言葉が過ぎまするぞ」


「兵部。残念だが、武田では織田には勝てん。面目も重んじねばならんが、機嫌を損ねてはならん相手はおるのだ。それは兄上も承知のこと。わしが兄上の命で、尾張にて誼を持ち信じてもらえるようにと励んでおったのだ」


 太郎はわしの言葉に驚いた顔をした。教えられておらなんだのか。飯富兵部も己の都合が悪いことは教えておらなんだとみえる。


「難しいことはない。人である以上は信義を重んじねばならんだけだ。露見せねばよいからと誓紙を破り、同盟を独断で破ったのは兄上の失策。いかに飢えておってもな。戦で勝てばよいと思うかもしれぬが、織田と戦ってまともに勝った者はここ数年おらぬ。この豊かな国と武芸に長けた者らを見て勝てると思うなら、好きにするといいと思うがな」


 飯富兵部は、わしの言葉に顔色を変えずに黙った。心情は察する。過ぎたことを責める気もない。されど今のままで危ういのは気づいておろう。


「真田らを責めることもしてはならん。この国は民ですら酒を飲み、祝いの日には菓子を食う。武田家家臣が雑炊を食うておると知ると軽んじることもありうる。織田で働いておるのは配慮をされたからだ。まさか他国で山に入り、勝手に山菜や獣を得るわけにもいかぬからな」


 真田らにも済まぬことをした。三条公の配慮がなければ庇うことも出来なんだとは。


「……今川相手なら共闘も出来るのでは?」


 沈黙を破ったのは太郎だった。


「そう上手くいかぬ。今川も必死だ。寿桂尼殿が幾度も来ておるし、此度は嫡男が来た。さらに織田は新しき政をしておる故に、あまり領地が広がるのを好まぬと聞く。少なくとも遠江攻めの機は幾度かあったが、動いておらぬのだ。むしろ信濃の小笠原を助ける名目であちらに兵を出すことのほうがありえるのやもしれぬ」


 小笠原を国もまとめられぬ愚か者と陰で謗る者が甲斐には多いが、武田とていつ同じようになるか分からぬ。


 太郎はそんな武田家の現状に言葉が出ないようであった。



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