第1320話・同盟なき三国
Side:北条氏康
叔父上が西堂丸を連れて尾張に行ってから六年か。
まさに日の出の勢いとはこのことだ。叔父上はいずれ織田が日ノ本を飲み込むやもしれぬと言うておったが、まさか六年でかように世の動きが変わるとは。
「なんと賑やかな湊だ」
伊豆下田から久遠家の船で、ここ尾張熱田湊まで船で四日。まさか関東を離れて尾張に来ることになろうとはな。
此度、わしが尾張に参ったのは他でもない。武衛殿よりわしを武芸大会に招きたいと書状が届いたのだ。さらに内匠頭殿からはわざわざ船を手配するとの
左様に為るも致し方なかろう。親王殿下ばかりか病の公方様が共にお越しになると聞けば、駆け付けぬわけにいかぬ。
ただ、叔父上は織田がこれほど勧めるのには、わけがあるのではと言うておったな。幸いなことに喫緊の懸案もない。皆に留守を任せて尾張までやってきた。
「左京太夫様、お久しぶりでございます」
「おお、今巴殿か。ずいぶんと立派になったな」
誰ぞ出迎えに待っておるのかと思うたが、懐かしき顔にわずかに驚いた。今巴の方。関東で名を上げた者を迎えに寄越すとは。
「忙しかろう? まさか親王殿下と公方様がお越しになるとは思わなんだわ」
今巴の方はあの頃とあまり変わらぬな。子を産んだと聞き及ぶが。しばし話をしたのちに、新九郎が言うておった馬車なるものに乗り清洲へと向かう。
「そうだね。忙しいし、無作法や不調法がないかって、みんなで苦労しているよ。左京太夫様ほどになると違うんだろうけどね」
相も変わらず武家が
「わしも親王殿下にお会いしたことなどない。無作法があればと案じてしまうわ」
上洛し、いつか内裏に上がる時もくるかと作法を習いはした。されどまさか尾張でかような機が訪れるとは。
「近隣から他にも参るのか?」
答えずとも良いとは思いつつ、ふと気になっておることを問うてみる。
「そうだね。今川は寿桂尼殿と治部大輔殿の嫡男が、武田は当主の
なんと!? さすがに驚かずにはおられぬ。次の帝となられる方仁親王殿下が参られておるのは聞き及んでおるが。今川と武田は嫡男を寄越すのか!?
今川は近年にない戦の支度をしておる。武田も同様なはず。かような時に嫡男を他国に出すとは。いったい何が起きておるのだ?
織田は今川と武田に己が力を見せたいのか?
「ここだけの話。来たことに後悔はさせないよ。伊豆諸島の恩もあるからね。北条にとっても左京太夫様にとってもいい旅になるはずさ」
囁くように語る今巴の方の表情に、ふと新九郎が出立前に言うておったことを思い出す。
『父上も尾張に行かれるとご理解されると思います。久遠家の皆様のことを』と言うておったのだ。
わからぬ。いったい、何が待っておるのだ?
叔父上と新九郎が築いた誼は、なにをもたらすのだ?
Side:寿桂尼
「ふふふ……ははは……」
「彦五郎、なにが可笑しいのです?」
尾張を目前に彦五郎が突然笑い出しました。供の者も同行する公家衆もさすがに驚き、彦五郎を見ております。
「いえ、父上はかような国を攻めようとされておられたのだなと思うと、つい……」
元服したというのに、未だに今川を継ぐ身としての覚悟が足りぬように見える孫にいかに言い聞かせるべきか悩みます。
彦五郎にはすでに織田に臣従をするということは言うてあります。にもかかわらずかようなことを言うとは。
「まあ、良いではないか。初めての旅じゃ。舞い上がるのも仕方ないことよ」
同行する公家がそう言うてくれると、私もあまり叱るわけには参りません。そもそも織田に臣従することは、未だ秘中の秘。露見させるわけにはいかないのです。
「されど、これでは尾張を攻めるのに甲斐が欲しゅうなるのも無理なきことじゃの。民も武士も見処ある良き国じゃ。
そう、決してこの者にだけは気付かれてはならないのです。無人斎道有。武田と今川が手切れになっても堂々と駿河にて隠居しているこの者は、武田が窮地となればいかに動くか分からないのですから。
ただ、武田との因縁を軽くするためには道有殿の力添えがいります。そのために親王殿下への拝謁を望むこの旅の同行を求めたのです。表向きは孫である西保三郎殿と会われてはという理由で。
斯波と織田はこちらの思いもよらぬ早さで大きくなります。此度で臣従の道筋を確実としておかなくてはなりません。
Side:武田信繁
年に二度も尾張に行くことになるとはな。しかも此度は兄上の嫡男である太郎を連れてだ。
武田家は今、存亡の機にある。織田と斯波次第で、名門甲斐源氏は兄上の代で終わってもおかしゅうない。招かれた以上は出向かねば要らぬ不興を買う。
今川が例年にない戦支度をしておるが、尾張がかようなことをしておるということは、やはり向かう先は甲斐か信濃しかあるまい。
僅かに吉報と言えるのは、信濃守護小笠原長時と今川の様子が険悪になっておることか。斯波武衛家の嫡男の婚礼でさえ口を利かぬ様子からして、長時は今川に相当不審を抱いておる様子。
ただ、ここで懸念となるのは小笠原が織田に兵を求めることだ。今川も武田も信濃から追い出したいと考えてもおかしゅうない。あの男は己ひとりでは戦も出来ぬからな。
「若殿、疲れておりませぬか?」
太郎は武芸も用兵もよく学んでおる。先行きが楽しみな男だ。甲斐の国人には、兄上を廃して太郎に家督を継がせてはと考える者もおろう。
されど今それを許すわけにはいかん。父上を追放し、今度は兄上を追放なり廃するなど許せることではない。武田家は国人らの神輿ではないのだ。
「これしきのことで疲れてなどおらぬ」
ああ、若いとは羨ましい限りだ。太郎は武田という名門の自負と己の力を信じて疑っておらぬ。
兄上の汚名をなんとか晴らして、もう少し良うなったときに家督を継がせてやりたいものだ。
そのためにも斯波と織田の信を得て、公方様や親王殿下にも是非とも太郎をお認めいただきたいところなのだが。
はてさて、いかがなるのやら。
◆◆
彦五郎=今川氏真の通称
太郎=武田義信の通称
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