第1312話・行啓

Side:久遠一馬


 八月も残りわずかだ。尾張では親王殿下を迎える準備と、武芸大会の支度で慌ただしくなっている。


 ちょうど稲刈りと重なったことも忙しくなった理由だろう。収量はまあまあだ。勢力が落ちた台風が一度来たことで多少の被害が出たものの、全体としては悪くない。


 天日で乾燥させたあとに脱穀をして年貢を得ることになる。この時期には蔵の備蓄米の確認と清掃も兼ねて、一度全部出して新しい米から奥に入れる作業がある。この備蓄蔵が領民の安心につながるんだ。


 それと白山の噴火で火山灰が降った地域は、収穫がまったくない地域もあった。もう年貢どころじゃない。ただし美濃は寺社を含めて領地を維持する者はいないので、飢えたり困るところはほぼないだろう。


 神田などは別の系列の寺などから分けてもらうそうだ。


 飛騨は一部で領地を維持している寺がある。そちらは多少の支援がいるだろう。内ヶ島は相当深刻らしい。ただでさえ山間の領地だというのに噴火の影響がもろに出ている。


 あそこは東家が説得しているようだ。ただし、一向宗との結びつきが強い地域であり、あそこで極秘に硝石生産しているんだよね。一向宗の寺が。そことの話し合いもいるので、内ヶ島単独で臣従とはいかない。


 江馬は必死に領地を治めようとしている。特に悪政を敷いているわけでもなく失政もない。ただし、同じ飛騨の姉小路と三木の領地が変わり過ぎて、その影響で領民が暴れている。


 まあ、隣の領地と言っても場所によっては山ひとつ向こうだったりするけど、それでも多少の交流と情報伝達はあるからね。


 そうそう、越中斎藤家。飛騨との領境に近い越中の国人だけど、そこもいろいろ大変みたいで道三さんのところに助けを請う使者が少し前に来ている。


 美濃の変化を話半分程度にしか知らなかったようだが、斎藤家が健在で羽振りがいいとは知っていたようだ。こちらは雪が降る前に支援をすることになり、すでに食料を送っている。


「いや~、風呂はいいねぇ」


「少し見ない間に那古野はまた賑やかになりましたね」


「ご苦労様、リーファ、雪乃」


 ああ、武芸大会を前にしてリーファと雪乃が、客船タイプの大鯨船で尾張に到着した。行啓の最後を伊勢から尾張までを海路にしたんだ。そしてそこの移動に客船タイプの船を使うことにしたのでね。


 それに万が一ということもある。ウチの船で移動することが当然だろう。


 ふたりは船にいることが多いからなぁ。さすがにお風呂はないから上陸するときは湯船に浸かることを楽しみにしているんだ。


 こっちに来る前に蟹江でも温泉に入ったらしいけどね。お風呂に入ってのんびりと休む。これが那古野に来た時のふたりの日課だね。


「本領はどう?」


「あっちは変わらないね。ただ、神津島は賑やかになったよ。伊豆からも船がくるようになったからね」


 あの島も温泉が湧いたんだっけか。しかし、既存の船だと神津島に行くのは結構大変だと思うんだけどね。それでも来る船があるとは。


 三雲さんたちからの報告は定期的にある。頑張っているのは知っているんだけどね。


「北条は驚いているだろうね」


「ええ、それはもう」


 雪乃が少し苦笑いを見せた。離島とはいえあそこに資本を一気に投入した結果、伊豆どころか駿河にも影響があったほどだ。富士浅間神社の富士家が友好的なんだよね。


 ああ、その富士家を介して寿桂尼さんから文が届いた。ウチの品物でいろいろ配慮をした返礼だ。あとは今後も良しなにお願いしますという丁寧なものだった。


 公家出身で名門今川の人とは思えない手紙だと、正直驚いたほどだ。


「本番までゆっくりしていていいよ」


「ああ、そうさせてもらおうかね」


 ふたりは親王殿下が来られるまで休んでもらおう。当日は他にも護衛の船を出すので、予行演習は必要だけど、それは他の人に任せよう。




Side:足利義輝


 明日には伊勢に入る。あと一息だな。


 親王殿下は見るものすべてが物珍しいようだ。余もかつては同じであったのかと思うと、銀次に見抜かれたことも致し方ないと笑いそうになるわ。


「余の姿を見て、驚く者の顔を見るのがまことに面白かったわ」


 それと病で伏せておるはずの将軍が健在であると知ると、驚いた者が多かった。中には重篤な病で二度と戦には出られぬなどと勝手な噂があったからな。


 直にあの小物にも知れ渡ろう。果たしていかに出るか?


「上様、かようなことをおっしゃられては……」


「そうであったな。許せ」


 皆が困った顔をしたのを見た武衛が思わず口を開いた。この場に親王殿下と公家衆はおられぬが、六角、三好、北畠、織田の主立った者らがおる。少し言葉を選ばねばなるまいな。


 余は菊丸としての身分と暮らしに少し慣れすぎたらしい。


 しかし、親王殿下の行啓を、兵を率いてお守りするか。これほどの誉は父上もなされておらん。都に戻れぬ流浪の将軍だった余が、かような機会を得るとはな。


 此度の行啓と来年の院の御幸は、足利将軍家にとって最後の誉を得る機となろう。幾度も臣下に悩まされ都落ちした将軍家には過ぎたるものだ。


 亡き父上や祖先に多少の申し開きにはなるであろうか?


「明日の鈴鹿峠越えが最後の難所であろう。皆、くれぐれも油断なきようにな」


「ははっ」


 明日には伊勢に入る。


 皆も慣れぬ役目に疲れが見えるが、織田領に入れば一息つけるはずだ。


 あとの懸念はやはり親王殿下が尾張をいかに御覧になられるかだ。無理難題を仰せにならなければよいのだが。遥か昔から変わらぬ朝廷と帝にとって、今も変わり続けておる尾張はいかに見えるのであろうか?


 俗世と乖離した内裏でひたすら祈る日々か。余には思いもつかぬご苦労があるのであろうな。


 されど朝廷と帝の地位だけは捨て去るわけにはいかぬこと。せめてもの慰みとなり、世の安寧をご覧になられて穏やかにお戻りになられるとよいのだが。


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