第1307話・ある日のお市ちゃん

Side:久遠一馬


 ふと気付くと史実で斯波義統が弑逆しいぎゃくされた日を越えていた。


 最近は史実のことを考える時間が減りつつあるので忘れていた。信秀さんが亡くなり、義統さんが殺され、史実の尾張のこの頃は他国から見ると弱く混乱していたように見えたんだろうな。


 歴史が加速しているのを改めて感じる。


 史実というモノはひとつの結果ではある。ただし、なにかきっかけがあると変わる程度のことでもあるんだ。オレはそれを肝に銘じておかなくてはならない。


 オレはオレの仕事をするしかないけどね。


 無量寿院の報告が上がってきた。尭慧さんがまだ戻っていないが、寺は落ち着きを取り戻しつつあるとのこと。尾張高田派を中心に寺の実情把握をしていて、織田と六角と北畠から請求された戦費や諸経費の支払いとその期限や支払い方法を話し合っているところだ。


 全国にある末寺に対して、説明と今後のことについて指示する文書を発給するようで支度をしているようだ。これは尭慧さんが戻り次第正式に動くことになるだろう。


 解決が早いが噂は広がっている。この機会に無量寿院の配下から抜け出そうとするところもあるだろう。他にも無量寿院から逃げ出した坊主たちが各地に散っていて、あることないこと吹聴したりしているところだってあるはずだ。


 以前からあった派閥争いがこれで解決するわけでもないし、むしろ悪化するおそれもある。あとは無量寿院に入った人たちの手腕次第なところもあるけど、長い目で見ると高田派も大変だろう。


 本山を自認していたものの、その権威に傷がついたのも確かだし。


 まあ、頑張ってほしい。オレは特に手を出すことじゃないので報告を受ける以外は関わらないけど。


「うーん。困ったもんだね」


 江馬領の混乱が落ち着く気配がないらしい。隣の元姉小路領や三木領と比べて、何故自分たちだけ貧しい暮らしをしないといけないんだ。そんな怒りが収まらないようだ。


 説明したところで理解しないだろう。領民の怒りの根源は飢えや死の恐怖からくる感情論だ。血筋や権威がどうだろうが関係ないという人が怒り暴れる。


 江馬家。確か幕府政所執事の伊勢家と繋がりあるんだよね。そっちに助けでも求めるだろうか? ただ、伊勢家。尾張とはほとんど関わりがない。北条家が伊勢家出身だが、伊勢家は三好に味方していて、今も都で幕府の仕事をしているはず。


 現当主である貞孝さだたかさんに関しては、義輝さんが合わない男だと、ちらりともらしたことがある。別に疎んでもいないようだけど、足利体制の維持を優先する伊勢家と、自ら動きたい義輝さんでは相性があまり良くなかったように思える。


 まあ、伊勢家に支援を求めても間に合わないだろうけど。




Side:お市ちゃんの乳母、冬


 稲穂がこうべを垂れるのが見えます。こうして馬車に乗るのもすっかり慣れましたね。


「ふゆ、行ってくるね!」


「はい、行ってらっしゃいませ」


 学校に着くと、私は姫様を見送って控えの間に向かいます。私のような乳母や侍女などお付きの者らが、学問を学び終えるまで待つのが習わしになります。


 顔なじみの者らと少し話をして、私も学問を学びます。今は休んでおられるアーシャ様が皆に勧めたことのひとつが、控えて待つ者らにも学問を教えることでございました。


 私たちのために、女衆に相応しい学問や嗜みなども多く教えていただけます。特に一馬様の奥方様は皆が多才であり、織田では負けぬようにと学ぶ者が増えております。


「今日は子を授かったらいかに日々を暮らすべきか。そのことについて話すから」


 今日はケティ様が師のようでございます。これはまだ内密ですが、ケティ様は子を授かっているかもしれないとのこと。休んでおられなくて良いのでしょうか?


 身を清め、手を洗い、うがいをする。ケティ様が教え導いたことは、すでに領国に広まっております。そのおかげもあってか病に罹る者や腹を下す者が減ったという話も耳に致します。


 ケティ様に限らず、久遠家の皆様の教えは何故そうなるのか、そこを考えることから始まることが多い気が致します。


 今日の教えも大変ためになるものでございますね。




「姫様、この後はいずこに参られますか?」


「うーんとね。はるかに会いに孤児院に行く!」


「かしこまりました」


 学問を学び終えると姫様はすぐにはお城に戻らず、いずこかのところへ出向くことが多うございます。時には熱田や蟹江や津島に行くことも珍しくありません。


 馬車と馬に乗った警護の警備兵が常に共にいるので、驚くほど速くあちこちに行くことが出来るのです。


「この辺りも変わりましたね」


「変わったの?」


「はい。姫様はご存知ないのでございましょうが、昔はこれほど栄えたところではございませんでした」


 姫様が城からお出になられるようになったのは一馬様たちが来てからです。故にそれ以前のことを御存じではありません。何度かお宮に参られたことはありますが、幼かったこともあり覚えておられないようでございます。


 かつて那古野は、いずこにでもある城と村しかなかったとお話ししてもあまり実感を持てないご様子。


 そんな姫様に私はアーシャ様の教えを思い出します。自らの知りうることを年若い者に伝えねば永久に失われてしまうのだと。


「一馬様や奥方様たちが、懸命にこの地を栄える町にしたのでございますよ」


 若い者に話して教え説いてほしい。余力があれば書にしたためて残せばもっといい。アーシャ様は皆にそれを教え説いております。自らの知恵ではなく、私たちの知恵や生きてきた証しを残すことから始めてほしい。


 それこそアーシャ様の教えの真髄であると私は思います。


「私もエルたちのようになる!」


「ええ、姫様ならばなれますよ」


 物心付いた頃から久遠家に出入りを許されている姫様は、他の大殿のお子と比べても違います。


 そう、まるで一馬様やエル様たちのように。


 皆を信じさせて、ひとつにまとめていく。織田が僅か数年でこれほど大きく変わったのは、かような難しきことを成した故の結果でしょう。


 姫様ならば、きっと同じように皆を信じさせてひとつにまとめていけるでしょう。


 私は、そんな姫様をお支えするお役目を頂けて幸せでございます。




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