第1295話・止まることを許されない尾張
Side:尭慧
恐ろしきかな。御寺がかように容易く落ちるとは。
民を救うべく教えを説く真宗が一揆にて崩され、帝の勅と公方様の
「尭慧様、なにとぞ御寺にお戻りなされますように、伏してお願い申し上げまする」
御寺は北畠と斯波の手により再建されるとか。織田に降った真宗の者らが何度もわしのところに参る。すべては織田の思うままか。無論、それに異を唱えるつもりはない。民を救うという教えにて織田に負けた我ら真宗の定めであろう。
されど、兄上と父上はいかに言うであろうか?
「今しばらく猶予を頂きたい。わしを救うてくれた兄上や父上、それと武衛殿や北畠卿に筋を通してから考えたい」
織田の治める地は穏やかなところだった。村々が力を合わせて働き、皆で飢えぬようにしておる。寺社もまた信心教えの違いで争わず力を合わせているなど信じられぬほど。
不満もあると聞く。されど『今までよりはいい』『仏の弾正忠様ならば仕方ない』と皆がそう言うて明日を夢見る。僧侶として仏に仕える者が、武士に心底負けたと感じたのに悔しさもない。
良い寺にしたい。日ノ本を救い、民を救う。真宗の教えこそが今の世に必要なのだと確信も持てた。
仏の教えで織田に負けぬ寺を再建せねばならぬ。
Side:斯波義統
「ちょうどよいところでありましたな。あれのおかげで山が火を噴いたことで神仏の怒りを買ったという噂が途絶えました」
内匠頭が面白そうに笑みを浮かべてそう言うと、倅の左兵衛佐が驚いた顔をした。
「天は仏の弾正忠の味方らしい」
「お戯れを」
巷でそのような噂が流行っておると先ほど一馬が言うておった。無量寿院は火山で我らに仏罰が下ったのだと騒いでおったらしいが、己らでそれを否定してしまったのだからな。いささか滑稽じゃの。
「戯れであろうと偶然であろうと良かろう。西が片付いたのじゃからの」
今日は尾張介と左兵衛佐も同席させて茶を飲んでおるが、ふたりはいささか大人しいの。尾張介はわしとの身分を弁えており、左兵衛佐は内匠頭に配慮しておる。一馬のように変わらずものを言えるには及ばぬか。
先日、アーシャを呼んで学校にていかに子を教え導くのか聞いたのだが、久遠の知恵の恐ろしさを感じた。
学問を学ぶ場では、身分を問わず己の考えを言うほうがよい。愚かだと思う考えからも新しき知恵は生まれると教えられた時には、背筋が寒うなったほどよ。
留吉という久遠の教えが生んだ絵師もおる。それがまことだと信じぬわけにはいかぬからの。
左兵衛佐と尾張介は、わしと内匠頭の跡継ぎとして相応しい者に育てねばならぬ。久遠の教えをわしと内匠頭で考え、ふたりで会う時に呼んでやることにしたのだ。
「これにて今川は背水の陣で甲斐を攻めましょう」
「面倒なことよ。領地安堵した先人の心情がよう分かるわ」
領地を召し上げる。これは一馬が新しき世を創るうえで譲れぬところじゃ。理由は理解する。尾張はすでに領地を召し上げて上手くいっておるからの。されど、代々土地にしがみついて生きてきた身としては面倒であることに変わりはない。
「海にでも参りますか?」
「それはよいの。あの海を見ておると一馬の本領を思い出す」
一馬は夏になると海に泳ぎに行く。近頃では尾張でも真似をする者がおると聞く。内匠頭に誘われて、わしもたまには真似てみようかと思う。
あの島のような国にしたい。尾張も日ノ本も。
海に行くとそう思えるわ。
Side:久遠一馬
無量寿院の末寺を放棄した人たちに戻りたいかと少し聞いてもらったが、戻りたいとはっきり言わない人が結構いたらしい。
末寺の人たち、三河の矢作新川の賦役をしている。本流となる川は完成したが、用水路とか整備するところはまだあるんだよね。
やはり生まれ故郷に帰りたいという人もいるし、お坊さんたちは寺に帰りたい人がそれなりにいる。ただし、食えるなら織田の命に従うという人も意外と多い。
元の世界でも災害で避難して長期化すると戻らない選択をした人もいたけど、この時代でもそう変わらないのかもしれない。
「強かというか、なにも考えていないだけかな?」
それと末寺に入っている反織田の人たちだけど、一揆に加わった者や無量寿院に味方しようとした者たちがいる。ただあまりに早い決着に大半の人たちが動く前に終わってしまったんだ。
結果として逃亡した人も僅かにいるものの、当然のように抵抗しないでこちらの命に従うところも多かった。
「織田に降る最後の機会かもしれませぬからな。北畠と六角も争う気がないとすると、いずこか遠くに行くしかない。されど、それも嫌だというのが理由でございましょう」
資清さんの言葉がこの時代の武士たちの本音か。土一揆の後と今回の二回抵抗しようとしたものの、及ばずに終わった。諦めもついたのかな。
変に拗らせても駄目だし、末寺と一緒に受け入れるべきだろうね。
ああ、一揆勢を勝手に差配していた人は抵抗するまでもなく幕府軍に降っている。民のために立ち上がったとか言い訳をしていたようだ。彼らも一揆勢と同じく労働させる罰になるだろう。
北伊勢の土一揆よりは軽い罰になると思う。情状酌量の余地があるし、大切なのは一揆という手法を選ぶと罰を受けると示すことだから。
頑張れば織田の治世でもそれなりに生きていけるはずだ。
それと、親王殿下の
帝が譲位後に住まわれる仙洞御所は史実と同じ場所になりそうだ。費用は主に織田で出すことになる。
まあ、この件で大変なのは三好だろう。内裏の修繕も終わってないのに、図書寮と仙洞御所の造営があるんだから。
しかし、帝が尾張に御幸されるなんてね。公家の皆さんの知恵と行動力に驚かされる。
決して帝と朝廷を疎かにしてはいない。ただし、上洛の気配もないことで少し焦りが生まれたか。史実のこの時期ではあり得なかったことだろう。
ルートは陸路と海路の双方で検討している。六角と北畠も慌てて支度をしているところだ。二度とないだろう誉となることだからな。
影響を今から検討して対策もしなくてはならない。ほんと忙しくなる。
「夏だね」
庭では子供たちが遊ぶ声がする。今日は孤児院の子供たちが草むしりをしに来てくれているはずだ。庭が広いと、草むしりも一苦労だからね。
「今日はところてんを用意しています」
ああ、エルは頑張ってくれている子供たちのおやつにと、冷やしたところてんを出してあげるつもりらしい。
いろいろ大変なことも多いけど、尾張の安定と子供たちがすくすく育つ姿を見ていると未来は明るいと思える。
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