第1294話・それぞれの戦後
Side:無量寿院の寺領の領民
「おっ父、おっ母。仇は討てなかったけど、おらたちを苦しめていた坊主は織田様が捕らえてくださったぞ」
家に帰っても誰もいねえ。いつも威張っていたおっ父も、そんなおっ父を支えていたおっ母もいねえ。
おっ父とおっ母、兄と姉もみんな死んだ。狭い家だと思っていたのに、広く感じるほどがらんとしてやがる。
「仏様も坊主も二度と信じねえ」
おらたちを苦しめるだけ苦しめて、坊主だけが食えるような世をつくられた仏様なんか要らねえ。おらは地獄でいい。みんながいるところに行きたい。
「茂吉、帰ったなら姿を見せんか」
「……爺様」
歩くのがやっとで一揆に加われなかった村の爺様が日暮れ時に来てくれた。
「良かったの。生き残れて。亡くなった者の供養もせんとな」
爺様の顔を見て、今まで出なかった涙が止まらなかった。悔しかった。なにも出来なかったことが。
「嫁を迎えんといかんな。わしに任せておけ」
なにも頼んでないのに爺様は葬儀から嫁の世話まで段取りを付けてくれた。このまま死んでもいいのにと思うのに。
「生きておる者には生きておる者の定めがある。あの坊主どもを見返してやれ」
人気のなかった村にみんなが戻ってきたんだろう。まるで祭りのように賑やかだった。爺様が亡くなった者たちを供養しようとみんなを集めたらしい。
星が、いつもより明るく見えた。
Side:無量寿院の僧
「おのれ……おのれ……おのれ……」
呪詛を吐くように憎しみを露わとする者を見て、これが共に仏に仕えた者の本性かと思うと己の不徳を理解した。
仏は最後まで助けてくれなかった。これが我らに与えられた罰なのだろう。
多くの僧が無量寿院を離れた。尭慧様ですら離れてしまった。そのわけを我らは考えもせずに喜んだ報いであろう。
寺を汚し、真宗の教えを地に落としてしまった罪は重い。
夏の暑さを遮るものがなにもない中、我らは縄を打たれて歩くしかない。人を見かけると罪人だと石を投げられる。それを止めてくれる者もおらぬ。
仏はいったい、いかなる世を望んでおられるのか。悟りも開けぬ我らには到底理解出来ぬことだ。
「おい、あれ」
「ああ、仏様の名を騙り、世を乱した罪人だろう」
寺領を出ると、そこは一変して青々とした田んぼと穏やかな地があった。僅か数年前には荒れておったはずの東海道沿いの宿場町だ。
我らには水のみ与えられたが、縄を解いてはくれぬ。畜生のように水を飲み、あとは日の当たる場所で捨て置かれる。
「おのれら! 皆、地獄に落ちるぞ! 織田も北畠も六角もな!!」
「あはは! 地獄だ! 地獄! 我らは極楽浄土であざ笑ってやるわ!!」
見世物のようにあざ笑われ、乱心したかのように騒ぐ者もまだおる。我らを連行する兵も止めればよいものをあえて止めておらん。まるで神仏を騙る愚か者を見よと言わんばかりだ。
いっそ一思いに討ってくれれば極楽浄土に行けるものを。
Side:朝倉宗滴
伊勢無量寿院が落ちたと、ここ牧場村にも知らせが届いた。本願寺に連なる者が大人しゅうなって、高田派が意地を張ってこうも落ちるとはの。坊主という者らの本質は加賀と変わらぬらしいな。
公方様が斯波と織田を随分と頼りにされておることも分かった。武衛殿らが公方様と会うたのは上洛の折に一度だと聞いたが、わずか一度の目通りで信を得たか。
分からんではないの。代々の将軍も苦心を重ねたが、それが今の世だ。織田といえども戦で世をまとめるのは難しかろう。内匠助殿はそれ故に戦以外を重んじるのであろうな。
「宗滴様! なにかお話が聞きとうございます」
「おお、よいぞ。さて、なにを話して聞かせてやろうかの」
少し考え込んでおると、子らが周囲に集まっておった。畑仕事が終わったようじゃの。
わしの体は思うたより良うないらしい。己の体だ、察してはおったがな。越前の殿はいかなる顔をされるか。ご理解はしてくださるだろうが、苦労するであろうな。
先日、子らに雪深い越前の話を聞かせると喜んでくれての。それ以来、こうして話を聞きたがる。こういう余生も悪うないと思える。
斯波と織田の今後の憂いは寺社であろうな。されど、止められぬと見た。朝倉家はいかがなろうか。
わしのこの命。いずこまで朝倉家のために生きながらえられるのか。難しいことじゃの。
◆◆
天文二十三年。七月。伊勢無量寿院攻めにより、幕府軍に無量寿院が攻め落とされている。
名目としては足利義輝の寺社への検断権の行使であり、後奈良天皇の勅命を拝領しての戦であった。
大将は六角義賢であり、先代であった定頼亡き後の対外戦としては最初の武功として知られている。
事の発端は織田家の躍進であったと言われる。直接的な原因は先年に起きた北伊勢土一揆であり、北伊勢の末寺は一揆後に支援を申し出た織田に従い復興をしていたのだが、上納金が払えぬ状況に陥ったところや、傘下から抜け出すことを選んだ寺を無量寿院が許さずに織田と交渉して返すように訴えたことから始まる。
『織田統一記』にも『一身田専修寺』の記録にも交渉は長く停滞していたとあり、無量寿院は当時の住持である尭慧の実家の飛鳥井家を仲介として呼んだとある。ただ、これが交渉をこじらせる原因となった。
一方的に公家を呼んで自分たちの主張を通そうとした無量寿院に織田方は不信感を募らせ、また飛鳥井家の名で末寺に対して勝手に圧力を加えていたことなどもあり、両者の関係は悪化の一途を辿った。
すでに尾張などで領地制を終わらせつつあった織田では北伊勢でも旧国人の領地を召し上げて統一した復興をしていたのだが、飛鳥井家と北畠家の仲介により末寺と寺領の返還をしたことで、両者はこの件を終わらせている。
返還にあたり織田方は織田に帰属を望む民の移民を無量寿院に受け入れさせている。そして末寺と寺領からは人が消えたと言われている。
これは仲介の内容に沿ったもので、織田方はいずれにせよ無量寿院の末寺は復興もままならず破綻すると理解していたのだと『織田統一記』にはある。
その後、織田が無量寿院に対して『両者ともに関与も配慮も不要』という仲介内容を理由に流通する物資の価格を流通基準に変えたことで無量寿院の寺領の物価は暴騰。寺領の民の困窮から一揆が発生した。
当時、流通は商人や寺社が握るのが一般的であったが、すでに織田家では独自の物価統制が行われており領民のために生活必需品の価格安定をさせるなど久遠一馬主導の経済政策が根付いていた。
関所の撤廃や税の減免など、織田家と支配下にある寺社の協力と努力の結果なのだが、それを理解していない無量寿院方は織田の荷留だと激怒したと伝わる。
朝廷の勅命を得たのは斯波と織田であったと記録にはあり、斯波義信の上洛の際に一馬が根回ししていたようだ。幕府軍として動いていたものの事実上の織田による無量寿院対策の結果であったと考えられている。
この一件は一向宗高田派の名を大いに落とし、公家や武家に他宗派からは高田派も本願寺派と変わらぬと警戒される結果となった。
伊勢無量寿院は、その後織田と北畠主導により再建され、現在も続く『一身田専修寺』として残っている。
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