第1255話・信康の帰郷
Side:久遠一馬
「
「オーホッホッホッ、武尊丸。皆に感謝するのですよ!」
「あ~、う~」
今日は武尊丸の百日祝いだ。尾張にいる妻たちと重臣のみんなに信秀さんと信長さんと義信君も来てくれた。
武尊丸は当然分かってないようだけど、ご機嫌らしい。シンディも我が子を祝ってもらえることに嬉しそうだ。
元気に育ってくれるのがなによりだ。厳しい時代だけど、前向きに生きてほしい。父さんが守ってやるからな。
「おいわい?」
「そうよ。貴方たちの時もお祝いしたのよ」
そうそう、今日は大武丸と希美と
「慶事続きで、めでたいですな」
「まったくだ」
そのまま百日祝いの宴にする。参列者には織田一族の皆さんもいるんだ。所領を放棄してどうかなと思ったけど、楽しそうに料理とお酒を楽しんでいてホッとする。
一族とはいえ争うし、戦もするのがこの時代なんだよね。軍事力を放棄したからどうなるか気になっていたんだけど。
実のところ、これ以上の領地は要るのかという声が織田家中からは聞こえてくる。あとは斯波家の悲願である遠江と越前を奪還すればいいのではという人もいるらしい。
内政で豊かになれると知った人を中心に、これ以上貧しい地を得て自分たちが苦労をして分け前を減らす必要はないと考え始めたようだ。
結局、所領が増えることが生きていくことや家が繁栄する条件だったからこそ、領地と戦を求めていた人たちだ。家の繁栄も生きていくことも領地が必要じゃないと知ると内向きになる人が出るのは当然だろうね。
他国がどうなろうが知ったことかというのが、この時代の本音だからだろう。
無量寿院の一件も織田家内部では割と冷めているのが本音で、勝手にすればいいとしか考えていない人も多い。
「このちらし寿司は美味いな」
一方、信長さんたちは今日の料理に喜んでくれている。ちらし寿司は見栄えもいいんだよね。おめでたいという縁起を担いだ鯛の塩焼きとか定番のお祝い料理もあるけど。
最初に振舞ったのは関東行きの船の弁当だったな。ちょっと懐かしい。あれ以来、このタイプのお寿司が織田家では時々メニューとして出てくる。
酢飯に必要なのはお塩とお酢と砂糖だけど、お酢と砂糖がこの時代では高いのとレシピを公表していないので、作れるのは織田家とウチだけなんだよね。
夏場は生魚をあまりお勧めできないけど、この時期なら大丈夫だしね。彩りもよくいろんな魚が使えるので織田家で振舞うことも割とある料理になる。
「めるまーま?」
「絵を残してあげようと思ってね」
向こうではメルティが絵を描き始めると、大武丸と希美がなにを描いているのと駆け寄った。吉法師君の時に絵を贈って以降、百日祝いで絵を描かせることが徐々に流行っているんだよね。
大武丸と希美や輝の時も描いてくれたんだ。
尾張だと絵師の仕事のひとつとして定着しつつある。上の身分の人が用いると流行るみたいだね。この時代では。
平和だし、文化を育てていくことはいいことだから続けたいね。
Side:織田信康
久方ぶりに嫡男の十郎左衛門と犬山の城に戻った。今年に入り、十日に一度役目を休める日が出来たおかげだ。
周囲から攻められる恐れもなくなり、今では留守居役の家臣も少ない。今年に入り木曽川を見張る警備兵を置いておるくらいだ。
家臣は武官と文官、それに警備兵にしてしまったからな。
「手放すとなると惜しゅうございますな」
嫡男の十郎左衛門が供として参った。今日城に戻ったのは他でもない。ここ犬山城を明け渡すための支度のためだ。
「そなたは生まれ育った城だからな。そうかもしれん。欲しいならくれてやるぞ」
「ここに居を構えれば役目をいただけませぬ。それでは父上の跡を継げぬではありませぬか」
わしもここに来ると思い出すことが多い。亡き父上のことや兄上と共に尾張をまとめようと励んでおった頃がいささか懐かしく感じる。
十郎左衛門は若殿の近習のひとりとして清洲で政務をしておる。あいにくとここに暮らせるほど暇ではない。
「領地を持つことは二度とあるまい」
一刻の成り上がりではない。内匠助殿が、兄上や自身がおらぬようになっても世が荒れぬようにと考えた新しき政なのだ。
「六角を見ておると正しき事と思いまする」
「であろうな。左京大夫殿は恙なく治めておるが、先代が偉大過ぎた。織田とて笑っておられる立場ではない」
代替わりで争うなど珍しくない。武士の争いを紐解けば代替わりが関わることなどいくらでもある。それを思うと左京大夫殿はよう治めておられる。
運がいいのか悪いのか。兄上や内匠助殿の隣国を治めることになったことには、いささか同情するがな。誰が治めても楽ではない。
此度とて内匠助殿が観音寺城でわざわざ六角に厳しきことを言わねば、いずれ望まぬ争いとなったかもしれぬ。
「十郎左衛門。欲を出すなよ。わしやそなたでは尾張半国ですら治める器ではない」
「心得ております」
まあ、あまり案じておらぬが。人を治め、国を治めるのがいかに難しきことか。十郎左衛門もよう理解しておるはずだ。
内匠助殿のような真似は出来ぬ。同じ世に生まれた者の定めであろう。己の分を受け入れるのもまたせねばならぬこと。
最後に城に残された私物を清洲の屋敷に運ぶように手配して帰ることにする。
別れの時だ、我が城よ。新たな役目と共に犬山の地を見守ってくれ。
◆◆
百日祝いで家族の肖像画を残す習慣は、天文年間の尾張が始まりである。
絵師の方こと久遠メルティが、織田信長の嫡男吉法師の百日祝いに絵を贈ったのが始まりであり、以後織田家を中心に百日祝いで絵を描かせることが広まった。
当時尾張では戦乱の世ながらいち早く安定した統治に成功していて、絵師などの文化人も集まっていたらしく、彼らが描いた肖像画が多く残されている。
天文二十三年、四月下旬。
犬山城城主であった織田信康が、居城を織田家に献上したと『織田統一記』にある。
すでに織田一族のまとめ役として兄である信秀の代理を務めるなど忙しく、城に戻れるのは年に数回程度だったようである。
『守れぬ城など持っておっても仕方ない』と語ったという逸話もあり、この年の年始に所領を放棄していたことに続き、織田一族の完全な俸禄体制に移行するきっかけを作った人物である。
信秀や久遠一馬が健在なうちに新しい政治と統治を形にしなければならないと考えたのだと、彼こそ織田家躍進の陰の立役者であると語る者もいる。
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