第1237話・入京を前に
Side:織田家下級文官
「いかがでございましょうか?」
腰が低く人の良さげな笑みを……と言えば褒め過ぎであろうな。いかにも欲深い顔をしておるわ。
差し出した銭は十貫か。大殿に上申を頼む銭としては多いのかもしれぬ。わしのような一介の文官には過ぎたるものだ。欲しゅうないといえば嘘になろうな。されど……。
「東海道を他の者に先んじて保内商人に使わせろと言われてもの」
「我らは斯波様と織田様の御為に働きましょうぞ」
一昔前ならば、よかったのであろう。こ奴らは年間三百貫ほどの銭を織田に納めると言うておる。その銭で東海道を己らに有利に使わせろと言うておるのだ。
鈴鹿峠越えは他の街道よりは楽だと聞き及ぶものの、それでも苦労もあろう。狭い道で他の者もおれば、いずれの者が先に行くかで揉めたりもするのだ。
こやつらは今までと同様に尾張や伊勢と近江の商いを握りたいらしい。
「そなたらは久遠殿がいくら大殿に納めておられるか知らぬのであろうな」
「はぁ、それはまあ……」
「桁が幾つも違うのだ。無論、久遠殿は東海道の商いではないがの。されどな、そのような久遠殿を差し置いて、先にそなたらに東海道を使わせろと? 久遠殿の荷を待たせろと申すのか?」
商人の顔色がみるみる悪うなる。
「いえ、そのようなことは……」
「久遠殿は商いに理解ある故、そなたらの今までの働きを認め許すやもしれぬ。されどな、他の者はいかが思うのであろうな? そなたらには千種街道があるではないか。それでは飽き足らず、東海道も思うままに使わせろとは少し欲深すぎぬか?」
六角家が先日の援軍の対価として、千種の所領を織田に引き渡すことを知ったのであろうな。今後、千種街道がいかになるかわからぬ。さらに東海道が穏当に通れるようになりつつある今、わざわざ道の険しき千種街道を使う利もあまりないのであろう。
今のうちに大殿に取り入って、東海道を先んじて使わせろと嘆願して、もし無理ならば千種街道を整える銭を出させたいのであろうな。
織田が領内の街道を整えておることも承知なのであろう。
「それで、これを大殿に上申してよいのか? わしはいかがなろうとも知らぬぞ」
「申し訳ございませぬ。一旦戻り、皆で考えてみまする」
顔色を悪うした商人はわしに差し出した銭も持つと、逃げるように出ていった。
まったく商人という者らは。己の利になることしか考えぬ。
念のため報告をあげておくか。
Side:久遠一馬
観音寺城にて二泊して出立した。余計なことを言ったかと少し悩んだけど、義賢さんや蒲生さんは理解してくれた。特に蒲生さんからは、配慮が足りずに嫌な役回りをさせて申し訳ないと言われたことに驚いた。
六角の内情と問題がわからないと助言のしようがない。そのことにどうやら皆さん気付いてくれたらしい。あとは上洛から戻ってからになるけど、考える時間も必要だしちょうどいいだろう。
義輝さんは今回の上洛には同行しないらしい。仕事が一段落したら甲賀と伊勢を少し旅してみるつもりだと言っていた。
織田と領地を接する伊勢と甲賀。自分の目で見て、そこから今後のことを考えてみたいそうだ。
近江も観音寺城を出ると、あとは難所もほとんどなく移動が楽になる。一行はトラブルもなく草津に入り大津へと到着した。
近江国の草津は六角家に属する町だ。甲賀で外れた東海道がここで東山道と繋がっていて、そのまま大津や都へと行ける。
義信君や若い子たちは大津の町と近淡海こと琵琶湖に驚いているね。
「近江も栄えておるの」
「大津は六角の所領じゃないんですけどね。あと北に行くと坂本の町と比叡山延暦寺があります」
大津の町と近淡海の水運は凄いんだけどね。ここの利権はいろいろと面倒なんで、六角家でも手を出せないところでもある。義信君がオレの微妙な顔を見て少し察してくれたらしい。
「ご無事の到着、祝着至極にございます」
大津では一益さんが待っていた。前回もしたことだけど、今回も義信君の入洛に際して斯波家として体裁を整える必要があるんだ。
「ご苦労様、そっちはどうだった?」
「はっ、万事抜かりなく。京極殿は先に都に入り迎えの支度をしております」
献上品の輸送も無事に済んだか。良かった。本願寺とは誼を深めているし、畏れ多くも朝廷への献上品に手を出す人はいないとは思うけどね。なにが起きるか分からない時代だ。
リーファと雪乃は石山にて船で待機しているみたい。その方が安全だしね。ああ、入洛を前に少し緊張気味の義信君と話をしておこう。
「いよいよ都か」
「困ったら家臣を頼ってください。そのための家臣です。ただ、近衛公には事前に頼んでありますので、そこまでおかしなことは言われないと思いますけどね」
あんまりおかしなこと教えたら駄目なんだけどね。尾張でも散々義統さんから言われているはずだ。
「多少の失態くらいなら私がなんとかしますから。あと、銭で片付くなら若武衛様の判断でお決めになられても構いませんよ」
「父上からは若いのだから恥を掻いても構わぬと言われた。鄙者ゆえ、分からぬと言うてもよいとな。内匠頭とそなたがおらねばあり得ぬ上洛だったのだからと」
うわぁ。義統さん。ぶっちゃけたね。
「誰も恥を掻かせようなどとしませんよ。まあ、多少の恥や失態くらいあったほうが物事は上手くいくかもしれませんけど」
「そうなのか?」
「若さとはそのようなものですよ。精進しますと言えばよいのですから。一度や二度の失態や恥くらいで斯波家に傷がつくことはありませんよ。実のところ、多少の隙があったほうが相手も安堵する時があるんですよ。内心で己が格上だと満足したりするのでね」
義信君ばかりか、いつの間にか周囲の皆さんも少し驚いた顔でオレを見ている。オレ、そんなにおかしなこと言ったかな?
「これだから久遠殿は怖い。知らぬと言いつつ、公家衆の本質を理解されておるからな」
オレが戸惑ったことに気付いた信安さんが理由を教えてくれたけど、そういうことか。
「私も日ノ本に来て、もう七年になります。それなりに学んでおりますよ」
価値観や常識は違う。でもね。人の本質なんて元の世界とそこまで違わないんだよね。当然、この世界に来て学んだことも多いしね。
朝廷に多大な貢献をしている今の斯波家に、わざと恥を掻かせるような人はいないだろう。根回しもしているんだ。ただ近衛さんたちの足を引っ張るのが目的ならあり得るけど。嫉妬は怖いからね。
それに多少の失敗は笑って前向きに受け止めるほうが評価されると思う。義信君は都と公家の皆さんとの会話を楽しむくらいでいいはずだ。
フォローもちゃんとするしね。
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