第1203話・義藤と長慶

Side:三好長慶


 近習の者を下げてひとりで向かう。案内役の坊主とてひとりだ。こうして己ひとりで公方様との謁見のために歩いておると、己もまた所詮はひとりの武士にすぎぬのだと思い知らされる。


 ここで刺客でも潜んでおれば、わしの命は終わるであろうな。されど、公方様と会わぬなどという道は選べぬ。それ故に、この場では己の力と知恵で動かねばならぬ。


 よく分からぬ御方だ。今でもそう思う。晴元を嫌うておるのは無論のことであるが、それよりも細川そのものを疎まれておられるように見える。これは誰にも言うてはおらぬがな。


 言えるはずがなかろう。公方様は細川の者を管領どころか守護に任ずることもあまり気乗りせぬなどと。わしは所詮、細川家の家臣でしかないのだからな。


「すでにお待ちでございます」


 障子の前に来ると、案内役の坊主がそう囁いた。公方様が先に来られて、わしを待っておられるだと? わしは遅参した覚えなどないが。呼ばれた刻限の前に入り待っておったのだ。


「三好筑前守様、お越しでございます」


 坊主の配慮に礼を言うと、坊主は中に声を掛けた。


「入れ」


 公方様の声だ。しかしここは昨年お会いしたところではないな。相国寺の中でも奥にある坊主らの宿坊であろう。


 着物を整え廊下で深々と頭を下げると、坊主が障子を開ける音がした。


「おお、よう参ったな。さあ、入れ。そこは寒かろう」


「ははっ」


 ご機嫌はよいようだ。そのことに安堵して頭を上げると、驚き言葉が出ぬ。なんと、中には公方様ただおひとりしかおられぬのだ。


 さらに案内した坊主も下がるとふたりだけとなる。このお方はいったい何を……。


「面をあげよ。堅苦しい挨拶など不要だ。今この場には余とそなたしかおらぬゆえ無礼講としよう。まあ、そうは言うても落ち着かぬであろうがな」


 囲炉裏の鍋をかき混ぜ、自ら味を確かめた公方様はそう仰ると笑みを浮かべられた。


「筑前守。この一年、まことに大儀であったな。礼を申すぞ」


「はっ、もったいなきお言葉にございます」


「そなたには都での面倒事を押しつけることになってしもうたゆえ、少しばかり案じておったのだ」


 そう言いながら公方様は自ら鍋の汁を椀によそうと、飯も自ら盛り、わしの前に膳を差し出した。


「話すべきことは色々とあるが、まずは飯を食おう。毒など入っておらぬゆえ案ぜずともよいぞ。一度温かい飯に慣れると、冷めた飯など食えたものではないからな」


「公方様の手ずから盛っていただいた膳、ありがたく頂戴いたしまする」


 分からぬ。なにをお望みなのだ。


「いかがだ?」


 この場でわしを殺めるならいくらでもやりようはある。毒など疑わぬが、いかにしてよいか分からぬのだ。ひとまず出された椀に箸を付ける。


 これは猪の汁か。味噌で煮たもののようだが、確かに美味い。都の薄い味ではないな。かというて東国の塩辛いだけの味でもない。猪の脂の甘味と味噌が一体となって体の芯から温めてくれるようだ。


「大変おいしゅうございました」


「そうか、阿波の味が分からぬ故、いかがかと案じたのだが、口に合うて良かった」


 まさか自らお作りになられたのか? そのようだな。よく見ると味噌が近くにあるのが分かる。


 宴をするわけでもなく、まさか公方様とさしでこうして飯を食うとはな。


「余はな、一介の武芸者として多くの地を巡った。都より東は関東や越後まで、西には南蛮船で周防に行っただけで、ほかはまだだがな。いずれの地も飢えと戦が絶えぬ地獄のような末世だと思い知らされたわ。……尾張以外はな」


 自ら世を見て回るか。今でもお立場を思えばいかがな振る舞いかと思うが、公方様にも己の信念があるのであろう。


 尾張。最後に付け足すように仰ったその一言は、なにか違う響きを感じる。


「そなたにも一度尾張にて花火や武芸大会を己が目で見てほしいものだ。面倒事を押しつけておる余が申すのもおかしな話やもしれぬがな。あの地には今の世に足りぬものがあるのだ」


 わしを見定めようとした昨年とは違う。自らお考えをわしに話して聞かせるおつもりか。


 そんな公方様の仰る花火に武芸大会。無論、わしも聞き及んでおる。特に花火とはこの世のものとは思えぬ代物であると。一度この目で見てみたいとは思う。されど今の立場で遥々尾張まで出向くことは難しいとしか言えぬ。


「筑前守、余はな。今のこの乱世を変えたいと真剣に思うておる。単なる願いではなくな」


 やはり、そうお考えであられたか。昨年の問答がそれを示しておるのはわしも気付いておる。なれど……。


「そなたに戦のない世が見えるか?」


「いえ、難しゅうございます」


 誰もが願うであろう。戦もなく天下太平の世がくればよいと。さりとてそれを成した者は未だかつておるまい。武士とは争い、戦にて生きる者なのだ。人が人である限り、争いは絶えまい。


「争うのではなく競うのだ。分かるか?」


「……申し訳ございませぬ」


「謝らずともよい。分からぬであろうと思う故に話しておるのだ。謀叛や戦が安易に起きぬ法を整え、体制を作り上げねばならぬ。命を奪わず、家名を傷つけず、定められた中で各々のいずれが上か力と技を競うのだそうだ。負けた者には幾度でも挽回する機会を与えてな」


 ……なんということをお考えなのだ。だが、それは公方様の知恵ではあるまい。坊主でもないな。考えられるのは……。


「尾張は久遠殿の知恵でございまするか?」


 公方様はわしの問いに満足げに頷かれた。久遠殿か、なるほど弾正らの言うた通りの大きな男ということか。


「我が主家、細川はいかがなりましょうや」


「管領の地位はやれぬが生きる道はあろう。無論、三好もな。ただしあの小物は許さぬがな」


 背筋が寒いのは冬のせいか、公方様の話のせいか。荒唐無稽な戯言ではない。公方様は確かな道として見定めておられる。


「某はいかがすればよいのでございましょう?」


「それはそなた自身で考えよ。今話したことは新たな世の僅かなことに過ぎぬ。変わること変わらぬことはまだまだある。良きことも悪しきこともあろう」


 やはり命じてはくださらぬのか。


「筑前守。答えは問わぬ。もしそなたが余と共にこの乱世を終わらせたいと願うならば、余に従え。天下はやれぬが悪いようにはせぬ」


 このお方は……まことに。


「三好筑前守長慶。この身に代えましても上様に従いまする」


「筑前守、ひとつだけ命じておく。今後、余に従うのならば、命を懸けず、生きて従え。そなたは新たな世を迎えるために欠かせぬ男なのだ。死なれては困るのだ」


「はっ、かしこまりましてございます」


 晴元如きに御せる御方ではない。それはとうに分かっておった。されどここまでとは思わなんだ。


「お味方は斯波殿と織田殿、それと六角殿でございまするか?」


「北畠もおる。ここに来る前に話してきた」


 織田は三河と飛騨を平定したはず。さらに関東の北条とて織田と誼を深めておるのだ。となれば近江から関東までこのまま東国をまとめてしまいそうではないか。


「すまぬが、そなたには今しばらく都を任せたい。余が戻れば小物らが騒いでいささか面倒なことになろう。機が熟すまではなるべく動きたくないのだ。朝廷には頃合いを見てそなたを修理大夫に推挙しておく。さらに細川氏綱の丹波守護も認めよう。困ったら左京大夫か武衛を頼れ。話はついておる」


「敵は武士のみにあらず、と思うてよろしいのでございましょうか?」


「ふっ、それが分かるそなただからこそ、都を任せられるのだ。万事うまくやれ」


 末は太平の世か、更なる乱世か。さりとて今のままでは争いは絶えぬ。ならば己の手で世を変える。公方様というお人が少し分かった気がするわ。


 わしがこれを漏らすことも十分お考えであろう。それでも困らぬという算段が見える。誰の策かは知らぬが、上手く考えたものよ。


 この策を考えた者は敵に回せぬな。争わず敵を従える。一番恐ろしいことだ。




◆◆


 『足利将軍録』の『義藤記』には、天文二十三年の一月末に京の相国寺にて足利義藤と三好長慶がふたりだけで会ったことが書かれている。


 義藤は自らの手料理で長慶をもてなし、戦乱の世を終わらせる決意を語ったとされる。長慶は生涯で一番驚いたと後に語ったと言われるほどであった。


 どのような会話をしたのかは残されていないが、長慶は義藤に改めて忠義を誓い、自ら義藤のために尽くすと示したとある。


 なお、この席で義藤は『余に従うのならば、命を懸けず、生きて従え』と語ったとあり、この言葉は義藤が久遠一馬の影響を受けたひと言であると言われている。





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