第1156話・時を経て
Side:久遠一馬
今朝は寒かった。外に出してあった桶に氷が張っていた。ロボ一家が水を飲もうとして、氷が張った桶をのぞき込んでつんつんと氷を突いていたのが少し可愛らしかった。
領内では流行り風邪対策をするようにと、かわら版や紙芝居で啓発活動をしている。織田領ではどうしても人の移動が活発なので、冬場になると風邪などが流行りやすい傾向にあるからだ。元の世界の伝染病対策と同じだね。
他国では商人や職人や坊主以外はあまり村から出ない暮らしだけど、織田領では賦役もあるし領内に関所がないこともあり村を出て大きな寺社に参拝するなどしている人もそれなりにいるんだよね。
「ようやく一息吐くことが出来ますな」
今日は益氏さんの婚礼の日だ。お嫁さんは勝三郎さんの養女になって益氏さんに嫁ぐ。そんな勝三郎さんがウチに来ている。
「ええ、そうですね」
ウチの屋敷で婚礼をするんだ。滝川一族のみならず池田一族からも勝三郎さんと数人が出席する。もともとこの時代の風習ではないけど、近頃の尾張の婚礼だとこんな形がなぜか増えているようなんだ。
きっかけはやっぱりウチだろう。新しい価値観とこの時代の価値観がミックスされているんだ。信秀さんが娘を嫁に出した佐治さんの婚礼に顔を出したことの影響が大きいみたいだね。
勝三郎さんだけど、今は文官として清洲城で働いている。彼の母親が信長さんの乳母だったので乳兄弟の信長さんの近習として働くようになり、今でも信長さんの部下として活躍しているんだ。
初めて会った時には元服前だった勝三郎さんも今では立派な武士となり、増え続ける仕事に追われている。
オレたちが尾張に来た頃からウチに出入りしていたこともあり、織田家の中でも新しい価値観ややり方に最も慣れ親しんだ人でもある。その分、旧来の価値観を持つ人たちと調整するのが大変らしいけどね。頑張っているんだ。
「話は変わりますが、もぬけの殻になった末寺と寺領を渡したことで無量寿院が驚いておったとか。まさか誰ひとり残らぬとは思いもしなかったのでしょうな」
益氏さんとの婚礼は池田家としても大きく、随分と大変だったみたいなので、今日の婚姻でほっとしていたみたいだけど、のんびりとしていたのも束の間、北伊勢のことでため息をこぼした。
移住が終わったいくつかの寺を無量寿院に返したんだけど、仏像もない寺と建物すら解体して木材を売り払い、跡地となった廃村に無量寿院が驚き戸惑っていると知らせが届いたんだ。
「あそこまでするものなんですね。私も驚きましたよ」
「決断の早いところは帰る気がないところでしょうな。坊主どもの強欲さはむしろ寺領の者のほうがよう知っておるのでしょう」
この件は、ほんとオレたちが関与したことじゃない。尾張高田派の仕事だ。そもそも無量寿院との交渉と結末は織田家中や領内に不満が多いんだよね。安易に妥協して折れたことを批判している人もいるんだ。
米粒ひとつたりとも無量寿院にはやらないと、心底怒っている人も何人か知っているくらいだ。
この時代だと生まれ故郷を離れると生きていけないので土地に固執するのが普通だけど、織田領では流民もちゃんと働くことが出来て生きていける。そしてそれは北伊勢には知れ渡っている。そうなると暮らしの格差などで村を捨てる人が出てくる。今に始まったことじゃないけどね。重い税を嫌って村ごと逃散するなんてことがあるくらいなんだ。
無量寿院側では危機感の強い人と全然ない人に分かれているようだ。金色酒や砂糖に香辛料、それと尾張産の高品質な塩や醤油など値が十倍を超したものもあるけど、無量寿院は今も以前と変わらず購入できているからね。
だから北畠も六角も本音では自分たちを敬い、織田を追い落とす隙を探していると自分たちに都合よく考えている人が主流のようだ。でも無人の末寺を手に入れたところでいったいどうする気なんだろうなぁ。
Side:池田恒興
久遠殿はいつ見ても変わらぬな。今や尾張どころか公方様にすら認められる男となったというのに、出会った頃のまま飄々と穏やかにしておる。
背丈が伸びて幾分精悍な顔つきとなったところもあるが、こうしてゆるりとしておることを好む。
地位を得るとそれに見合った振る舞いや生き方をするのが当たり前だというのに。
今では織田家中ですら久遠殿を恐れる者がおるが。久遠殿は愚か者やよからぬ企みをする者以外は自ら嫌うことがあまりないように思える。
早う太平の世にして隠居したい。以前、若殿と酒を飲んでおったときにそう語っておったことを思い出す。
尾張もこの数年で大きゅう変わった。自らの武と力にて尾張をまとめるのだと決意を語っておられた若殿が、今では城で文官として励む日々を送っておられるとはな。
「勝三郎様、本日はおめでとうございます」
互いに気心が知れた仲でもある久遠殿とゆるりと話しておると、お清殿が茶を持ってきてくれた。
「ああ、これで年寄りらにせっつかれずに済むわ。滝川家との縁が切れたら御家の一大事だと煩そうてな。亡き父は滝川一族だったのだ。そう焦らずともよいものを」
「尾張に来て以来、池田家には随分とお助けいただきました。私も皆も決して忘れてはおりませんよ」
お清殿は久遠殿の奥方となり、今では看護の方と呼ばれ市井の民に好かれておる。多彩な久遠殿の奥方らに負けぬ働きぶりには感心するばかりよ。
尾張に来た頃は大人しい娘でしかなかったというのに。久遠殿の周囲におる者は皆、立派になっていくわ。
「そうだね。池田家と勝三郎殿には随分とお世話になったね」
「久遠家がこれほど大きゅうなると知っておれば、もっと世話を焼いたのですがな」
あまり世話になったと言われるばかりでは居心地が良うない。すでに幾度も礼を言われ、贈り物だと珍しき品や酒を今でも頂いておるのだ。ならばと、こちらは戯言で返すと久遠殿とお清殿は面白げに笑われた。
堅苦しい言葉など望まぬのだ。久遠殿はな。こうして共に笑えることをなにより喜ばれる。
我らの孫が元服する頃には世はさらに変わっておるのであろう。戦も知らず、荒れた世も知らぬ者が生まれよう。その頃の尾張はいかがなっておるのであろうな。
オレには久遠殿や若殿のように先のことなど分からぬが、ひとつだけ分かることがある。
この荒れた世を導くことは久遠殿でなくば出来まい。今や仏と称えられる大殿もかつては恐ろしいとすら思える武士だったのだ。
「先のことなんて分からないものですよ。私だって驚きの日々です」
決して己を誇ることがなくとも皆に認められる。久遠殿のような男でありたいものだ。
さすれば、きっと……。
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