第1155話・甲斐の希望

Side:武田晴信


 ようやっと戦が終わったか。戦勝の宴を開くと、家臣らは今川を返り討ちにしたと喜んでおったな。無論、虚勢を張っただけであるがな。


 わしとて勝ったなどとは露にも思うてはおらぬ。されど、せめて戦勝の宴でも開いてやらねば収まらぬのが、家中の現状なのだ。


 今年も米の収量は少なかった。この冬にいかほどの民が飢えて死んでいくのであろうか。


 国人衆とて虚勢を張っておるが、腹の内では怒りと不満で煮えくり返っておろう。父上の頃から外に敵を作り、敵と戦い奪うことで生きてきたのだ。我ら甲斐者が奪われる側になるとは思うてもおらなんだであろうに。自業自得と思えるがな。


「兄上、お呼びでございまするか」


「ああ、そなたにこの文を見せてやろうと思うてな」


 弟の典厩てんきゅうを呼び、尾張から西保三郎が送ってきた文を見せてやる。ひとつひとつの字がはっきりと書かれた整った文だ。尾張での暮らしと学んだことが書かれておる。


 今でも家中には何故尾張に人質を出すのだと不満を口にする者がおると聞くが、西保三郎が送ってくる文だけがわしのせめてもの慰めだ。唐の言葉を学び、鹿島の塚原卜伝から武芸を教わったのだと嬉しそうに書かれておる。


「尾張を見ておらぬ者が見ると、信じぬかもしれませぬな」


 典厩も西保三郎の文に久しく見せなかった笑みを浮かべた。


 食うたことのない料理や菓子が美味かったと喜び、友と呼べる者らが出来たのだと嬉しそうなのだ。明日をも知れぬ甲斐では決してあり得ぬことであろう。


「飛騨が降ったとか」


「尾張と美濃、それと三河と北伊勢。最早争える相手ではないのでございましょう」


 本音をいえば、そのような裕福な国がほしい。わしとて奪わずに暮らせるならそれに越したことがないと思うのは同じよ。何も好き好んで奪っておるわけではないのだ。


「今川も苦しいようだな」


「東三河が離反すれば、次は遠江。斯波家にとって悲願の地でもあるはず。されど……」


 近頃、夢を見るようになった。同盟を破り、騙し討ちで殺めた諏訪家の者らなどがわしを嘲笑う夢だ。


 諏訪の神の天罰が下ったのだ。そう言われる夢だ。


 織田が遠江を攻めてくれれば助かるのだが、その気配はない。尾張者にとって我ら甲斐者は卑怯者ゆえ助ける義理などないのだ。今川と武田が潰し合っておるうちは高みの見物であろうな。


 祈禱を頼んだとて腹が膨れる奇病の死人も一向に減ることはない。武田はまことに神仏に見捨てられたのやもしれぬな。


 わしは父上のように家臣らに追放されるやもしれぬし、寝首を掻かれるやもしれぬ。なんとも不甲斐ない我が身が憎らしいわ。




Side:北条氏康


「織田の勢いが止まらぬの」


「殿、勢いではありませぬ。勢いというのならばむしろ抑えておるほうかと思われまする」


 東三河と飛騨が織田に降ったと知らせが届いた。近隣で争いそうなのは今川くらいか。越前の朝倉でさえ対立を避けておるというほど。


 羨まずにはおられぬ勢いだと思うたが、駿河守の叔父上が勢いではないと告げると重臣らが驚いておるわ。


 叔父上の言葉は重い。自ら尾張に出向いたおかげで今の尾張との誼がある。織田がここまで大きゅうなると見抜いたのは叔父上だけじゃからの。


 今川と武田の家中にはそろそろ和睦をという声もあるとか。互いに得るものもなく潰し合うだけの戦に音を上げておる者が多いようなのじゃ。


 甲斐や駿河の国境付近には今川や武田に従いながらも、我が北条家にも従っておる者がそれなりにおる。そんな者らはわしに仲介を頼んではと進言しておるようじゃが、晴信も義元も首を縦に振らぬらしい。


「今川はまだ織田と戦うのを諦めておらぬので?」


「そのようじゃの」


「それはまた……、心情は察しまするが。武衛様は御父上の無念を耐えて戦を避けておられるというのに」


 玉縄衆を率いる孫九郎綱成が頑なな今川に呆れておるわ。鎌倉沖の海戦の武功から尾張と誼が今でもある男じゃ。この者もあれ以降変わったな。武勇に優れた男なれど、戦には慎重になった。


 尾張から学んだと当人は言うておったがな。


「伊豆諸島も変わりましたからな。あれで一介の家臣だとは……」


「久遠殿を一介の家臣と見るのは誤りであろうな。あれは同盟者と同じじゃ。当人があまり望んでおらぬようじゃが、武衛様も内匠頭殿もそう思うておろう」


 家中には尾張と争いたいと考える者はほぼおらぬ。領地が離れておることもあるが、久遠殿の力を身を以って理解したからであろう。


 叔父上は斯波、織田と久遠の関わりを同盟だと考えておる。確かに家臣とするには力が大きすぎるからな。


 あそこは日ノ本の武家と思うべきではない。


 久遠殿に伊豆諸島を与えてからというもの、伊豆下田から材木に食べものなどよく買うていくのだ。黒い南蛮船や久遠船が来るのも珍しくなくなったほど。さらに久遠殿は駿河の浅間神社からも材木を買うて誼を持ったとか。北条家ほどではあるまいが、莫大な利が浅間神社の富士家に入っておろう。義元が震えておっても驚かぬわ。


 久遠は伊豆の商人にも荷を運ばせておるが、伊豆諸島の神津島に行った商人は驚いて帰ってくるという。


 なにもない離れ小島だったはずが、船と人で賑わう島に変貌しておるのだからな。先日など神津島で温泉を掘り当てたと騒ぎになっておったほど。


 久遠からの礼金と商いの利。その大きさに誰もが驚き今川を憐れむほど。


 叔父上は遠くないうちに北条家も選ばねばならぬと言うておる。織田に臣従するのか同盟者となるのか、戦うのか。


 叔父上は織田に臣従するほうがよいのやもしれぬと考えておる様子。さすがに誰にも言うておらぬようだがの。


 いかになるのやら。あそこだけはさっぱり分からぬ。




Side:久遠一馬


 今年最後の献上品を観音寺城と都に送り出した。今回は年始の祝い向けの品物が多いかな。


 当然だが、良銭での献金もしている。この献上品がないと年を越せない公家もいるとの噂もある。真相までは確かめていないけどね。


 ああ、都では公家衆があちこちにある書物を引っ張り出して写本を始めていると知らせも届いた。紙や筆に墨は、尾張から送った品と都で入手した品を用意した。金額の基準はこちらで決めさせてもらったし、主導権は握っている。


 とはいえ都の職人や商人にも利を与えないといけない。都の側もこちらが利を求めることを当然と思っているので、お互いに妥協出来る範囲でやってもらった。


「うーん。どうしましょうか」


 この日、義賢さんから信秀さんに文が届いた。信秀さんに見せられた文をオレも読んで、そのままエルに手渡す。


 昨年の野分と一揆から一年、この時代としては驚くほど復興をしたみたい。ただ、問題も発生している。


 六角では一揆勢を捕らえて助命する代わりに働かせているんだけど、不満が続出していて逃亡者が相次いでいるんだ。実はこっちにも逃亡者がたくさん来るんだよね。悪いけど罪人は扱いが厳しくなる。織田で捕らえた一揆勢の罪人と同じく強制労働だ。


 ただし困るのは流民か罪人か分からないことが多いことか。人数が多すぎて梅戸としても大雑把に扱っていて管理もしていない。


 まあ、時代的にそこまで法令順守をしているわけではないので、現場の判断で従順そうな人は流民に、タチの悪そうな人は罪人にしているようだけど。


 六角としては使い潰したいようだけど、一揆でも起こされると面倒になる。同じ北伊勢でも織田領は飢えない程度に上手くいっているからなぁ。


 それとこの問題、東海道の治安が回復していて正常化しつつあるので、東海道よりも道が険しい八風街道の価値が下がっていることもある。


 義賢さん、どうやら助言がほしいようで文を寄越したらしい。


「策はあります。すぐにでも出来ることは待遇を変えることでしょうか。よく働く者には飯を多く出す。働かぬ者はいっそより厳しいところに送るのも手かもしれません」


 エルが簡単な対処法を語るが、正直、犯罪奴隷ってあまり効率が良くないんだよね。それとこの時代の人はあまり気にしないけど、治安の悪化とか周囲に与える悪影響もあるんだ。


 ある程度復興したなら、あそこもプランテーションに移行したほうがいいと思うんだけどね。一応、助言に加えておくか。



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