第1124話・変わりゆく世界の中で
Side:とある旅の男
この世にこれほど豊かな地があるのだな。すでに大半は稲刈りを終えておるが、越後と比べると明らかに豊かで実入りが多そうな国だ。
さらにこの辺りは冬になってもあまり雪が降らぬと聞く。それだけでも羨まずにはおられぬな。越後もせめて大雪が降らねばな。
「関所がないというのもおかしなものだな。ここらの者はいかにして食うておるのやら」
織田の地で関所があったのは、東美濃と尾張と清洲に入るときか。そのうち税を取られたのは東美濃のみ。あとは東美濃で渡された書状を見せると荷を検めるだけであった。その分、東美濃の税は他ではあり得ぬほど多くの税を取られたがな。
おかしな国だ。誰もがそう首を傾げた。いずこでも治める者が変われば税を取るものだ。越後でも関の税で食うておる者もおるのだから、それが当然のはずだ。
よくよく見ると、さらにおかしな国だ。領内の村々は収穫を巡って争うような所もなく、賦役に出ておる所が多かった。民が賦役を嫌がるどころか進んで出ておることに驚きさえ感じる。
理由はよく分からぬが、仏の弾正忠とやらが治めておるからか? 当地の守護代家の当主の異名であるとか。『尾張者は慈悲深く、仏の弾正忠様は敵地の民であっても従う者には慈悲を与えてくださる』そんな話を途中の村で聞いた。
「あれが、そうか」
「はっ、尾張の武芸大会でございますな。武士や僧兵ばかりか領民や他国の者でさえも、己の力量次第では出られると聞き及んでおります。この辺りでは名の知れた祭りになりますな」
案内役の御師が語る話に顔をしかめる者もおる。武芸を見世物としておるのかと呆れておるのだ。数日前に聞いたときには愚か者だと皆で笑うたからな。
さすがに織田方の護衛の者がおるので口には出さぬが。
近隣の大名はこのように豊かな地を何故攻めぬのであろうか。織田が強いのは聞き及んでおる。されど戦などいくらでもやりようがあろうに。
下賤な見世物になど関わるべきではない。そう語る者もおったが、殿は何故か見てみたいと仰せになられた。
殿は尾張の酒がお好きだからな。尾張の国をご覧になりたいのであろう。
「ここから先はさらに混みあっておりますが、たとえ御身に少々触れようとも決して刀など抜かぬようにお願いしまする。祭りを血で汚す者は誰であろうと許されぬというのが尾張の掟でございます」
見世物の場へと案内されるが、途中で歩けぬほど民が混み合うておるところに来てしもうた。このような場は初めて見るわ。
無論、他国で騒動など起こさぬわ。
念のため殿をちらりと見るが、特に異論はないご様子。護衛の者も道を空けよと言うて道をあけさせておるが、いかんせん人が多すぎる。まるで戦場のようではないか。
「うわっ!」
人の中を歩いておると、道を空けようとした幼子が目の前で転んでしまった。
「もっ、もうしわけございません!」
なんだ? 幼子が慌てて平伏すると、周りにおった民が静まり返った。先ほどまではこちらを見ながらも楽しげにしておった民らが、まるでなにかを恐れるように静まり返ったのだ。
「ほら、気を付けろよ」
護衛の尾張者が立たせてやるとすぐに周りも賑わいが戻るが、あの異様な静けさは何故だ?
「以前にさる大名家のご家来衆が、着物を汚した幼子に刀を抜いたことがございましてね。それが大事になったことがあるのでございますよ」
案内の尾張者の話ではこの辺りでは有名な逸話なのだそうだ。無礼者を成敗するのは必要であろうが、確かに幼子に刀を抜くのはあまりに器量の狭い愚か者とも思えるな。
それにしても凄まじい人出だ。これが戦だと思うと恐ろしゅうなるわ。
side:久遠一馬
「わかった。引き続きお願いね」
思いがけず面白い報告が入った。
上洛するために領内に入っていた越後の長尾景虎御一行が、武芸大会の会場に来たらしい。
長尾家からは上洛するので領内を通るという知らせは事前にあった。ただ、清洲城に立ち寄るとか武芸大会を見物するなんて聞いていない。どうも直前になって景虎が言い出したらしい。
こちらの案内役の警備兵が貴賓席に案内しようとしたが、景虎はそれには及ばないと断ったようだ。越後が雪深くなる前に戻りたいとのことだ。
まあ貴賓席に行くと面倒だろうしね。この時代、他国のトップに会わないのは普通だ。迎える側もいざという時の防衛のために城や町をあまり見られたくないという人が多い。街道を通るだけなら認めるが、余計なものは極力見せないように監視するのは当然だからな。
長尾家とはほとんど交流もないしね。こちらを警戒したのかもしれない。
長尾景虎。史実ではのちに関東管領上杉家を継いだ後に上杉謙信と名乗り、「軍神」や「越後の龍」の異名で呼ばれたのでそちらのほうが有名だろう。
戦国時代でもっとも戦上手だと言われる人でありながら、後世の史料からでは実情がよく分からない謎の人物でもある。女性説まで出たほどだ。
ちなみに史実でもこの時期に上洛しているんだよね、景虎。史実では義藤さんと拝謁して意気投合したような逸話がある。でも肝心の義藤さんはここにいるんだよね。
「長尾か。そう言えば文が来ておったな」
ぽつりとか細い声でつぶやいた菊丸さんだけど、景虎と会う気はないようだ。今年は貴賓席には素顔を知る六角家の人や京極さんがいるので、オレの護衛という名目でここにいる。
長尾も史実と少し変わっているんだよね。北信濃の村上が健在なおかげで、有名な川中島の合戦が起きていないから。一方の武田は今川と戦でそれどころじゃないしね。
まあ、関東管領の上杉憲政は越後に逃げたらしいから、そこらは同じだけど。
「一度出てみたいのだがな」
少し考える仕草をしていた菊丸さんだが、目の前で次の試合が始まると思考がそちらに移ったらしい。大会出場、これは遠慮してもらうしかない。万が一何かあれば困るし、そもそも素性がばれたら大変なことになる。
無論、本人も理解しているのであくまでも願望を語っているに過ぎない。ジュリアいわく本戦に出られるだけの力量はあるとのことだが、目立つと困るからね。
しかし景虎か。こんな形で近くに来るとはね。
正直言えば興味は大いにある。武田信玄と同様に美化した歴史の偶像から考えると違和感はありそうだけど。
ただ、現実問題として今の長尾家と越後を考えると、そこまで警戒する相手でもなければ気にする相手でもない。現時点では争いになる接点もないし、お互いの国力にはすでに大きな開きがあるからだ。
織田はすでに経済力だけならば史実の豊臣家に匹敵する。以前にも話したけど、この時代の越後は信濃川の氾濫が多くて米どころではない。ただ日本海航路の交易船が立ち寄るので、その利益や青苧の売上などはあるようだけどね。
越後の人口もさほど多くはないだろう。当面の脅威とは言えないのが現実だ。
歴史としてみると、確かに彼は戦の天才かもしれない。一説によれば生涯で二敗しかしなかったとか。でもね。彼が仕掛ける戦にこちらが応じる理由はどこにもないんだよね。
それに織田はすでに次のステージに進みつつある。もはや単純に戦で勝敗を決めて物事を進める段階ではないんだよね。経済や外交などにより戦をしなくても領地の拡大が出来るようになっているからね。
長尾景虎は、そんな史実にはない尾張とこの武芸大会を見てどう受け止めるんだろうか。
領内で一行を泊めた寺などからの報告だと景虎は寡黙でほとんど口を開かず、側近がすべて話していたらしい。ただ出したお酒はお気に召したようだけど。
越後と尾張は単純に言えば青苧を買って酒を売っているという関係だ。他にも細々と取引はあるけど、現時点ではその程度だ。景虎が酒好きというのはどうやら史実と同じらしいけど、49歳で早死にしたのは飲み過ぎが原因による脳卒中だったらしい。酒量はほどほどにしたほうがいいと思うけどね。
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