第1092話・止まらぬ流れと、止まれぬ者
Side:久遠一馬
北近江の反乱が終わった。京極高吉は密かに逃亡したようで行方不明だ。
「見逃したのであろうな。捕らえたところで追放するしかあるまい」
庭で遊ぶロボ一家と吉法師君たちを見ながら、信秀さんはそうこぼした。
忍び衆の報告では、六角は積極的に京極高吉を追っていないとしか思えない。取り立てて重要でもないので虫型偵察機など使っておらず、オレたちにも真相はわからないが、もはや京極家の処遇などどうでもいいのは確かだろう。
「六角からはなにか言ってきましたか?」
「いや、まだ来ておらん。されど手助けせねばなるまい」
秋の収穫を前に戦を終わらせたことは好材料だが、刈田で荒らされた田んぼも多いようで後始末が大変そうなんだよね。
六角家からは大内義隆さんの葬儀のあとに、新しい治め方などを教えてほしいと頼まれたこともある。畿内の情勢などの情報交換もしている。一応、伊勢で北畠家が始めたプランテーションも説明と提案したんだけど、そっちはまだ進んでいない。
正直、あそこの混乱は周辺の誰も望んでいないんだよね。朝倉も都や尾張への街道として北近江を利用しているし、近江には琵琶湖の湖賊と比叡山延暦寺がある。六角で安定するなら現状ではそれで十分だというのが織田の方針だ。
「東も揺れていますしね」
それとこちらは西ばかり見ていられない。東三河も揺れている。織田に従う欠点は領地を召し上げられることだろう。それを考慮しても今川から離脱したい国人や土豪が増えている。
理由は遠江攻めの噂が未だに消えないことと、織田に従った者たちを見て、それでも生きていけると理解したからだと思う。
領内の物価は出来る範囲でこちらがコントロールしているので、東三河だと品物によって値がまったく違うという異様な事態が起きていることも理由だ。いくら流通が未熟なこの時代とはいえ、それこそ子供でも分かる暮らしの違いは脅威でしかない。
塩、玄米、雑穀なんかについては、特に値が上がらないようにしているからな。
正直、遠江駿河はそこまで景気がいいわけでもなく、食べていくので精いっぱいな地域も多い。そこに今川による甲斐信濃攻めの負担が大きい。
信濃では今川優勢だが、もともとそこまで裕福な地域でもなく、また苛烈な税の取り立てを出来るほどでもない。戦なんて金食い虫なんだ。数年に一度でも負担が大きいのに、毎年のように攻めている今川領は苦しい状態だ。
そもそも今川の三河統治は大義名分が弱い。従えていた松平宗家も今はなく、守護や国司だというわけでもない。血縁で実効支配しているだけなので、血縁がないところは今川に義理立てする以外の理由があまりないくらいになる。
結果として領地を失う損失はあるものの、家の存続や大義名分などを考えると今川に従う理由がないというところも多い。
「今までのやり方では駄目だ。それでは乱世は終わらぬ。地図を見ると狭いが、それでも日ノ本は広いのだ。押さえた地に五年も十年もかけられぬ」
子供たちが遊ぶ姿を見ながら信秀さんはそう決意するように語った。
そう、統一という目標を明確にしたことで見えてくるものもある。統一して終わりではないのだ。それを理解しているんだろう。
「ケイキでもいかがでございましょう」
しばらくするとエルと千代女さんが侍女さんたちとケーキと紅茶を運んできた。吉法師君たちもおやつの時間のようで手を洗って屋敷に入っていく。
今日はシフォンケーキか。
「ほう、これは今までのと違うな。なかなかよいものだ」
ケーキにしては甘さも控えめで軽いシフォンケーキに信秀さんは驚きつつ、気に入ってくれたようだ。午後の紅茶のお供にはいいかもしれない。
ほのかに感じる甘みが心地いい。素材の味を生かすという意味では、この時代の人の味覚に合うのかもしれない。
「頃合いを見計らい、上様と話したほうがよいかもしれぬな」
エルと千代女さんを交えておやつタイムにするが、シフォンケーキを食べながら信秀さんはなにかに気付いたようにそう口にした。
千代女さんは顔に出さないものの驚き、オレもなんと答えるべきか迷い、すぐに返事が出なかった。
菊丸さんとは同じ夢を見ているといえば言い過ぎだろうか? オレはそう思っている。
ただし鎌倉以来続く武家政権と足利将軍家という立場を背負う、足利義藤さんは難しい立場にある。
「我らは大きゅうなり過ぎた。足利を終わらせねばならぬのならば、いかに終わらせるかを考えねばならぬ。平家や鎌倉のように戦をして滅ぼさねばならぬのか。それとも他の道があるのか。上様に黙って進めることこそ不忠であろう」
忠義か。生まれた世界が違うオレに足りないものなのかもしれない。信秀さんは争うことになっても一度話すべきだと考えたのか?
確かに菊丸さんには随分と良くしてもらっている。それに菊丸さんとは多少ではあるが話しているし、以前には新しい世の中を考えていることを認めて話もした。
「そうですね。懸念はありますが、よく話すべき時は近いのかもしれません」
エルも考え込んでいる。オレたちよりも足利幕府の終わらせ方を考え悩んでいるのは菊丸さんだろう。
三河が落ちるのは時間の問題だ。飛騨だってこちらの影響が思った以上に強まっている。
なにかのきっかけで遠江、駿河、甲斐、信濃を治めることになっても不思議じゃないほどなんだよね。
ただ一歩間違うと、史実の織田のように戦続きの日々になるな。それがこの時代だといえばその通りなわけだし。
「ちーち、ちーち」
「はーは!」
季節の変わり目だなと感じる。菊丸さんのことは義統さんも交えてもう一度相談することにして話が終わると、侍女さんに抱えられて午後の散歩に出てきた大武丸と希美がオレとエルを見つけてはしゃいでいた。
「おお、すっかり話すようになったな」
大武丸はエルに抱っこしてほしいと手を伸ばして、希美はオレに手を伸ばしていたので抱き上げてやる。
初めて話してから数日、次に覚えたのは『ちーち』だった。嬉しかったな。今では会うと『ちーち』と呼んでくれるんだ。
信秀さんはそんなオレとエルを見て、まるでおじいちゃんのように笑みを浮かべている気もする。先ほどまでの厳しい表情とは別人のようだ。
「じーじ!」
「大武丸、大殿は『じーじ』ではありませんよ。申し訳ありません。歳上の殿方を見ると『じーじ』と呼ぶようになっておりまして」
「じーじ!」
「よいよい。孫に変わりはないからな」
そう言って信秀さんは目尻を下げている。
驚いたのは大武丸が信秀さんを『じーじ』と呼んだことだろう。資清さんとか望月さんを何故か『じーじ』と呼ぶんだよね。
いろんな人が会いに来てくれていろんな言葉を教えるから、誰が教えたのか不明だけど。
エルも困ったように言い聞かせるが、大武丸はそれが余計に楽しいのか笑いながら『じーじ』と何度も呼んでいる。
この子たちが大きくなる前に統一出来たらいいんだけどなぁ。殺伐とした世界で生きてほしくない。
頑張ろう。難しいことでいっぱいだけど。
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