第1055話・久遠諸島滞在中・その四
Side:塚原卜伝
ふと見ると、久遠殿の楽しげな顔が見えた。皆を驚かせたいとでも考えておるように見えるの。
変わった男だ。幾度となく話をしておる今でもそう思う。これほど力があるにもかかわらず、よく知る者には恐れも警戒もされぬ。
世を変えたいと思いながらも、己で世を治めようとは思わぬ。己の分を弁えておると言えば聞こえがいいが、久遠殿は世を治める身分を欲しておらぬだけとも言える。
公方様のお立場とご苦労を思えば理解するところもあるがの。
人の上に立たずとも己の願う世をつくれる。見方を変えると誰も出来なかったことをしておるのだ。
武衛殿が、内匠頭殿が、公方様が、久遠殿の見ておる世をつくりたいと本気になっておられる。この事実が世に知れ渡ればいかがなるのであろうか。
「今日は少し趣向を凝らしまして、料理を数回に分けて運びます。温かいものは温かいまま、冷たいものは冷たいまま召し上がっていただきたいと思いまして」
久遠殿の言葉に戸惑う者が見られる中、運ばれてきたのは飯と椀に半分ほどの吸い物と、焼いた魚の身ときゅうりの酢の物であろうか。あとは赤い見たこともない実もあるな。これはいったい……。
久遠殿の出したものだ。まずは食べてみるしかあるまい。どれ、赤い実をいただくとしよう。
「ほう、これはなんとも……」
塩をわずかに振った赤い実は瑞々しく、甘さと僅かな酸味がいい。しかも冷たく冷えておるのだ。夏のようなこの島ではこれ以上ない馳走かもしれぬ。
「とまと美味しいね」
「ほう、とまとというのか」
「はい! 久遠家の夏の作物でございます!」
名を訊ねようとするが、その前に市姫が名を口にした。さすがに久遠家のことには詳しいということか。歳の割にしっかりしておるのう。
ああ、酢の物も冷えておって美味い。温かい飯によく合う。
吸い物は昆布の味がするの。青い菜が少し入ったもので、これは酢の物と、とまととやらに合わせたのか。
ああ、なんと美味いのだ。しかももっと食べたくなる。
「これは……」
「鯨肉でございますわ。島では鯨が獲れるので鯨料理がいろいろとあります」
続いて運ばれてきたのは、茶色いものだった。これは揚げ物か。久遠殿の屋敷で一度食うたことがある。アイム殿という奥方が如何なる料理か教えてくれるが、久遠家と誼のない者らが驚いておるのが見える。
日ノ本では鯨は高価な品だ。食うたことのない者も多かろう。
「なんと!」
先ほどまでのとまとや酢の物と違い、此度は味が複雑でしっかりしておる。しかもまだ熱いままだ。噛みしめると止まらなくなる。
うーむ。この味は醤油であろうか? 美味いとしか言えぬ。
周りを見ると夢中でたべておる者は当然ながら、二度と食えぬと覚悟して食うておる者も少なからずおる。
ほう、こちらは鯨肉の焼いたものか。単純な料理に見えるが、生姜の味がいいのう。わしは料理が出来んが、容易く真似ることが出来んことだけはわかる。
酒は赤い葡萄酒だ。久遠殿いわく葡萄酒には様々なものがあるらしいが、これは飲みやすいものだとか。
鯨料理とよく合うの。
「以前食うた鯨とまったく違うな。獲れる地ということもあろうが、久遠殿なればこそということもあろうな」
ふと静かだなと思うた公方様を見ると、噛み締めるように食うて周りを見ておった。
公方様ならば食うたこともあっておかしゅうないが、温かいものではあるまい。毒見をしてからのものじゃからの。
そういえば、織田や久遠では毒見をしておらんな。それだけ家中を信じておるのか? 毒を盛られぬように気を付けてはいると思うのだが。改めて気付くと驚きじゃ。
Side:織田信安
久遠家の料理は相変わらずだな。和やかな宴を静かにさせるのは久遠家の料理くらいであろう。
腹もそれなりに膨れてきたので酒と料理でゆるりとしておると、腹を満たした皆が、ようやく口を開いて楽しげな声があちこちから聞こえてくる。
公方様が身分を偽りこの場におるだけでも驚きであるが、下男や下女に職人や働き始めたばかりの孤児まで同じ席についておるのだ。なんとも面白き光景よ。
外はすっかり日が暮れておる。わしの席からは外が見えるが、あの光は湊のものか。久遠家の苦労も凄さも、すでに十二分に分かった。
「そういえば、刺身がありませぬな」
「夏なのでね。獲れたての朝は別として生ものは避けました」
ふと気になっておったことを久遠殿に訊ねる。伊豆諸島でも出たが、やはり海のあるところは魚が美味いのだ。何故刺身が宴にないのかと思うたが、腹を下すことを懸念してのことか。
刺身で腹を下すほど柔な者がおるとも思えんが。ああ、市姫様くらいか。とはいえ大胆に見えて慎重なのは内匠助殿らしい。
「最後は菓子を用意しましたわ」
皆が満足したのをみておったのだろう。アイム殿が最後にと菓子を運ばせる。
ケイキもそうだが、久遠家では食事に菓子を出すのが習わしらしい。しかしこの料理の出しかたは本膳料理と似ておるな。
源流は本膳料理なのかもしれぬ。良きところを真似つつ、皆で楽しめるようにと考えたとすると久遠家らしいと言える。
「うわぁ……」
市姫様の嬉しそうな驚きの声が聞こえて微笑ましく感じる。
菓子の見た目は蕎麦の粉を薄く焼いた熱田焼きに似ておるな。なにやら白いこれはケイキの甘いタレか。一緒に果物と思わしきものと黄色いタレもかかっておる。……なんと添えられておるのは氷菓子か!
「おいしい!」
慣れた手つきで箸と匙を使うて食う市姫様の言葉に、周りの者もたまらず己の菓子を頬張る。
これはあれか。牛の乳を凍らせて作ったというものか。久遠殿は南蛮の言葉で『あいすくりーむ』と言うておったな。
柔らかい粉を焼いたものに、冷たい氷菓子と甘い白タレと果実のタレを合わせると、この世のものとは思えぬ味になる。
これほど贅沢な菓子は日ノ本でも久遠家しか用意出来まい。皆、名残惜しそうに皿に残るタレを匙で綺麗にすくって食べておるわ。
ああ、これほど満足する宴は、久遠家の宴以外で味わうことが出来ぬ。
都では主上でさえ、うなぎや羊羹を楽しみにしておると聞いた。うなぎは都でも料理出来る者がおるらしいが、久遠家の秘伝のタレは餅屋以外には出しておらんようだ。羊羹は未だ久遠家の秘伝の菓子となっておる。
久遠家は料理だけでも天下が取れるのではないかと思える。
久遠殿はそのようなことは望まぬであろうがな。
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