第1016話・不機嫌な者
Side:久遠一馬
ブランカが仔犬を産んだ。オスとメスが二匹ずつだ。今回はブランカも慣れていたんだろう。落ち着いていて、
織田領では田植え・田仕事の準備が進んでいる。伊勢の戦の影響はほぼない。他人事と言えばそれまでだけど。
伊勢の北畠方と関の元領地、それと志摩で臣従した水軍の領地では、まだ検地と人口調査が残っている。こっちは田仕事が最優先かなぁ。食料確保がこの時代の最優先課題であることに変わりはない。
そうそう織田領では伝馬・伝船制度の構築が進みつつある。これは表の情報網の構築といったほうが分かりやすいか。拠点となる駅を各地に設けて、そこ同士を馬や船でつなぐことで迅速な情報伝達をすることになる。
この拠点となる駅をすべて一から新設していると手間と時間がかかるので、暫定的ながら既存の城や寺社を駅に指定して情報網を構築することにした。
それとこの伝馬船制度の情報伝達網を利用して、織田家の緊急命令を即座に伝達する連絡網も構築する予定だ。これにより昨年の野分のように、命令が届かなかったということがなくなるだろう。伝書鳩を使った裏とも言える情報網の一部は、天候に左右されやすいからね。
「長野が落ちたとのことだが、伊勢はいかがなるのだ?」
この日、菊丸さんが将軍義藤に戻って、ウチで政務を行なっていた。観音寺城からくる書状に目を通して署名したり返信の書状を書いたりするんだが、ちょうど伊勢のことを耳にしたようでいろいろと聞かれている。
今更な部分もあるが、将軍様に進言していい立場じゃないんだけどね。朝廷の官位を持ってはいても。それを指摘しても、当の本人は菊丸として聞いているんだと言ったりする。なかなか逞しくなっているよ。
「大きな混乱はないと思いますけど。北畠家はこちらの政を学ぼうと頑張っておりますし。まあ宰相様はこちらへの返礼を悩んでいるでしょうけどね」
義藤さんの北畠に対する評価は良くも悪くもない。具教さんを見かけたことはあるが、未だに素性を明かしていないところをみると信じてもいないようだが。
「また官位か?」
「かもしれませんね」
さすがだね。北畠の返礼のことを口にすると官位ではないのかと口にした。権威か領地か銭か。返礼はいろいろあるが、北畠の体裁と今後改革したいと考えると悩みどころだろう。菊丸さんは返礼代わりの官位というのも考えものだと思っている気がする。
「三好も悪うないが、物足りぬな。あれでは天下をまとめることは出来まい」
そのまま話は三好になるが、評価が微妙なのは仕方ないかな。長慶は歴史に名を残すに相応しい人物だが、如何せん三好の置かれた状況がそれほどよくない。
もともと阿波の国人で細川京兆家の家臣でしかない身分だ。さらに東の織田が強くなり過ぎたことも関係している。義藤さんを擁しているのは六角であるし、三好政権と言えるほどの力もない。
現状では上手くやっていると思う。菊丸さん、もともとせっかちだからね。物足りないと思うらしいが。
「こう言ってはよくないかもしれませんが、上様に己の考えを言うなど出来ませんよ。三好殿の立場だと特に。腹を割って話したいのならば、互いに信じられる関係を築くか、そういう制度を整えないと無理でしょうね」
それと菊丸さんは長慶さんが腹を割って話をしてくれなかったことが不満らしいけど、それは無理だよ。ウチは歴史を知りいざとなっても対抗出来るから言えるけど。
「……なるほど。オレはまだまだ人の立場になれんと見える。師にお叱りを受けるな」
菊丸さんとしては譲歩して長慶さんの立場も慮ったのだろうが、それでも将軍の力を理解してない。前々から過小評価していたからね。菊丸さんは。
少し反省している姿がなんとも素直だ。次に会う時はもう少しうまくいくだろう。
「しかし人とは勝手なものだな。都合が悪くなると命じても勝手をするというのに、己の扱いが下がるとなれば、己に都合良きことばかり書いた書状を出すとは。恥というのがないのか」
ただ、そんな菊丸さんも一通の手紙を読むと少し不機嫌になった。どうも若狭の細川晴元と一緒にいる幕臣のひとりから届いた文が原因らしい。一言で言えば許してほしいということみたいだけど。
晴元の求心力が落ちているのか? 例の北伊勢の国人による討ち入り後も若狭に籠っているからなぁ。
菊丸さんはもちろん許す気もないらしく、返事も出さないみたいだけど。
Side:春
私たちはまだ長野城にいる。長野領の城はほとんど落としておらず押さえの兵を置いているだけ。それらに知らせを出して降伏に従わせることが必要になる。主立った城を従わせるまで軍は解散出来ない。
それはいいんだけどねぇ。
北畠と長野は俸禄とする範囲と額で調整をしている。北畠はさらに織田への返礼も考えているらしいが、まあすんなりと決まらないわよね。
「援軍の返礼は援軍でよいのでは?」
夜には宴が毎日開かれているが、その席で昼間の流れなのだろう。織田への返礼の話になった。こちらの反応でも探る気かしら?
「たわけ、それでは求められるまで借りとなるではないか」
一部の家臣はたいした血を流した戦をしていないことから、援軍の対価を援軍でいいのではと考えたらしいが、老臣がそれを否定した。名門北畠の面目と現状の力の差。苦しいわね。
「それよりも御所様、織田に倣うとのことでございますが、いかに倣うのでございますか?」
「ふむ、いずれから手を付けるべきであろうか。それはわしも考えておるところ」
「春殿、如何思われる?」
「おお、そうだ。お教え願いたい」
あまり楽しくない話を耳にしながらお酒を飲んでいると、改革に悩む宰相殿の心中を察して、鳥屋尾石見守が当然のようにこちらに話の矛先を向けてきて、周りがそれに同調した。その様子に私は少し釘をさしておくことにする。
「私は北畠家の状況を知らないわ。新しいことには苦労も多くて銭もかかる。北畠家に如何程の余裕と覚悟があるのか、知らないと軽々しく言えないものよ。失敗だってないわけじゃないわ。それと知恵も無償で当たり前に教えると思ってほしくないわね。他ならぬ宰相様だからこそ、ご下問には織田の私に許される進言をお返しして、時には助力も惜しんでいないけど。他家、それも格上である北畠家相手とすると本来なら相応の対価をいただくとこよ」
私の言葉に宴の席がしんと静まり返った。やはり少し舐められていたようね。不要な争いは困るし、敵に回したくないから相応に力を貸したけど。私はあなたたちの家臣じゃないわ。
「春殿、すまぬ」
「御所様!」
「黙れ! そなたらは春殿を軽んじておったのであろう? 女だからというのと、先日の戦において惜しみなく策を授けてくれたことを勘違いして。だがその場で動かねばならぬ
宰相殿が膳を寄せてこちらに頭を下げると、静まり返った場が騒然とする。身分があるこの時代でここまでするとは私も驚かせたわ。さすがに床に頭がつくほどではないけど。
「こちらこそ少し言い過ぎました。申し訳ありません。ただ軽々しく言えないことだとご理解ください。心身に馴染まぬ教えは、体現未だ成らぬもの。馴染まぬ教えで政を失敗でもすれば、取り返しのつかないことになるのです」
私も儀礼的に謝罪する。宴の席とはいえ言い過ぎたとも言える。でもね。裕福で強いからと安易に真似をして出来ると思うのは危険なのよ。覚悟がないなら私は関わりたくないわ。
宰相殿に関してはジュリアが気に入っているみたいだから、司令は手を貸すでしょうけどね。
場を白けさせたことを詫びて、一足先に借りている部屋に戻る。
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