第992話・北伊勢の変化

Side:久遠一馬


 伊勢が揺れている。長らく統一されていなかった伊勢において、短期間でここまで情勢が変わったことがないのが原因だろう。


 ただ織田家としては明確な方針の下で動いているので、あまり影響はない。


 伊勢の情勢に関して願証寺の末寺は、概ね織田に従うことで統一された。これは現在も食料支援をしている影響が大きい。一部では織田軍の下で賦役も参加している。背に腹は代えられない。そういうことだろう。


 野分と一揆の被害で寺領も決して楽ではないからね。


 一向宗高田派の寺社に関しては本当にケースバイケースだ。高田派の拠点である無量寿院では末寺の統制を試みているが、結局のところ食べ物がないという致命的な寺では飢えるか逃げるか織田に従うかしかない。


 北伊勢では長年共存していた国人や土豪の領地がほぼ消えたこともある。助ける者も共に動く者もほとんどいないんだ。


 三河でもそうだったが、隣は飯が食えているという事実は本当に重い。


 ああ、北伊勢の水軍の再編が終わった。こちらは一揆で所領を失った者が多かったのと、大きな勢力がなかったのでわりと楽だったらしい。これで尾張から中伊勢までの海域は完全に制したことになる。


 意外に時間がかかったのは、神戸などに従う北畠方の国人の水軍がいたからだ。


「桑名では驚いておるようでございますな」


 着々と落ち着く海と対照的に、桑名は混乱している。資清さんが報告をもってきてくれたが、自作自演でアピールしようとしていた商人たちが追放されたんだ。中には織田に率先して協力していた商人もいたことで、多少の混乱がある。


 商人のイメージも元の世界の時代劇などとは違う。武装商人と呼ぶべきだろう。武力も持つし、お客様は神様だなんて価値観はまったくない。


 追放された商人たちは織田の法を守りつつ、騒動を起こして自分たちで収めては成果をアピールしていたが、それが信秀さんの怒りを買った。大人しく商いの利権だけを守っていればよかったんだろうけど。


 ただ北伊勢の混乱で商いが立ち行かない商人もそれなりにいる。彼らへの救済策として、仕事の斡旋などして桑名の商人が崩壊することだけは避けることが出来た。今後は大人しく働くだろう。すでに桑名の町は織田が掌握しているしね。


「湊屋殿に行ってもらったし大丈夫だろう」


 あと桑名に湊屋さんを送った。機能していない桑名の自治組織を再建するためだ。元の呼び名は四人衆や三十六家氏人などと呼ばれていたが、それらはもう存在しないので、これからは会合衆として正式に認める。


 代官も置くし、治安維持は警備兵が行う。権限は制限することになるが、商人の組合も必要だし、細かい問題は現地の人たちにも統治に参加してもらう必要がある。


 桑名が落ち着けば尾張と北伊勢のこのあたりは今後大きな騒動は起きないだろう。


「かじゅ、かじゅ」


「わかさま、だめでございますよ」


 仕事が一段落したので休憩しようとしていると、部屋に入ってくる吉法師君を吉二君が止めていた。どうやら絵本を読んでほしいらしい。


「いいですよ。読んで差し上げます」


 吉二君、数えで六歳になった。両親が那古野城で働いているんだが、吉二君は信長さんのお気に入りらしく、最近になり吉法師君の近習のひとりに抜擢された。


 いい子なんだよね。吉二君。


「きち!」


 吉法師君も吉二君がお気に入りらしい。吉法師君を膝の上に乗せて絵本を読んであげる体勢になると、吉法師君は吉二君に隣に来いと手招きをして呼んだ。


「はい!」


 仲良く座ったところで絵本を読んであげる。吉二君は学校にも通っていて頑張っていると聞いている。まだ幼いのでいろいろ遊んでいるくらいらしいけどね。


 そうそう、今日はお市ちゃんが学校に行っている。お昼頃には戻ってくると思うけど。


 学校は楽しいらしい。羨ましいな。元の世界だと学校は必ずしも楽しいところではなかったからな。




Side:神戸利盛


 恐ろしい。心底恐ろしいと思う。老若男女が当たり前のように喜び働いておるのだ。村々の対立もここではない。


 織田の賦役。いざ間近で見ていると、これに対抗する難しさを痛感する。一向衆が大人しゅうなるわけだ。


 検地をして必要な賦役を決めておるが、始める前には地元の長老衆を集めて意見も問うておった。川が氾濫しやすい所や、風で稲がよう倒れる所など地元の者しか知らぬことも多い。


 それに長老衆を無視すると面倒になるが、素直に従うと楽になるからな。織田の賦役は僅かな間で驚くほど進んでおる。


 銭と米や雑穀が毎日送られてくるのだ。これが戦だったらと思うと恐ろしゅうて敵わん。


「春、やっぱりダメだわ。関領と長野領から賊が止まらない」


「仕方ないわね。軍を追加で編成しましょう。それと国境も強化しないと。大殿に上申しておくわ」


 腕利きの者らを集めて賊の討伐を行なっていた夏殿が戻られた。あっという間に領内の賊が討伐されておるが、厄介なことに関家や長野などから賊が入ってくるようになった。


 あちらは食うにも困っておるという。一揆勢の生き残りもおろう。こちらに荒らしに来るのは今に始まったことではない。


「神戸殿、関家からはなんと?」


「賊など知らぬとしか言っておりませぬ」


 至急清洲の大殿の許しを得るために使者を遣わすことになるが、春殿から関家について問われた。関家では未だに我らが織田に降ったことで怒っておるからな。まさか賊をけしかけてはおるまいが、嫌がらせになっておるのだ。こちらからは賊が来ぬようにしろと使者を出したが、聞く耳をもたぬであろう。


「北畠家のめいも聞いてないみたいなのよね。よほど己の力に自信があるのかしら」


「申し訳ありませぬ」


 呆れたような春殿にわしは深々と頭を下げた。本家と言うても祖父が北畠家から来て以降は争うこともあり不和なのだがな。とはいえ謝らぬわけにはいかぬ。


「神戸殿を責めているわけじゃないわ。三河でもよくあったことよ。申し訳ないけど関家との国境を固めて人の往来も制限するわ」


 関家の者らは織田の力を理解しておらぬな。わしは教えておらぬが、血縁のある者も多い。噂くらいは聞いておってもおかしゅうないのだが。


 危ういな。北畠家の御所様の命も守っておらぬのに、織田まで怒らせていかがなるのやら。




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