第993話・冬の終わりに
Side:久遠一馬
冬の終わりが近いなと感じる。
春を目前に三河が動いている。深溝松平と竹谷松平。深溝松平は織田領と隣接する所で、竹谷松平はその東隣らしいが、その両家が松平宗家を通じて臣従を打診してきた。
きっかけはやはり幡豆小笠原だろう。尾張と美濃に北伊勢まで得た織田と、甲斐信濃へ侵攻している今川。一見すると互角にも見えなくもない。とはいえ尾張美濃が豊かなのはこの時代の人でも理解はしていることだ。
この時代のやり方で織田が動いていると、もっと早く情勢が動いたんだろうが、織田への臣従は領地整理があるのでどこも慎重だったんだよね。松平宗家の現状や他の西三河の国人衆の様子を見て判断したんだろう。
甲斐の武田相手に優位に立っているとはいえ一進一退の今川と、ろくに戦もしないで領地が広がる織田。その違いは大きいということだ。
今川が幡豆小笠原の人質を解放したことも影響してそうだけど。義元と雪斎は徹底的にこちらとの争いを避けている。その姿勢は流石としか言いようがない。
織田家で頭の痛い問題は文官不足だろう。人員は増えているが、それ以上に領地が増えている。検地と人口調査だって簡単じゃない。北美濃と東美濃と北伊勢では未だに検地と人口調査が終わっていない。
北美濃と東美濃は山間部も多いので、隠し田もあったり山の民などいて現状把握に時間がかかっているのだが。
「尾張と西美濃と西三河が安定しているのが幸いですね」
少しばかり領地が広がるのが早い。ただ久々に一緒に仕事をしているエルは、尾張と西美濃と西三河が思った以上に安定している状況にホッとしているようだ。
経済的には野分と一揆は被害もあったが、むしろ経済が活性化した部分もある。米や雑穀などの食料備蓄が多少予定より貯まっていないが、危機というほどでもない。
「戦をするより賦役をしたほうが得だとみんな気付いているからね。助かるよ」
この時代の人も馬鹿じゃない。明確な成果を示すと理解するし、その影響はむしろ敏感に察する。
賦役に出ると昼飯が食えて銭がもらえる。あとは領国の食料さえ確保しておけば、わざわざ他所に奪いに行く必要がないことはみんな理解している。
食料増産はむしろこの時代の人のほうが積極的だ。ウチが持ち込んだ新品種と新農法は今年から大規模に行う。さらに農業に関しては改善点や要望などが、目安箱に投書されることが増えた。
尾張、西美濃と西三河では耕作放棄地はあまり見られないレベルになっているし、新たに畑を開墾するところもある。水利が悪くて放置されていたところなどが畑になっているんだ。
「竹ほうき除草機と水田中耕除草機はいかがなりましたか?」
「はっ、双方ともに良好なようでございます。前者は作るのも簡単なのである程度の数を用意出来まする」
そうそう、エルが資清さんに確認した除草に関する改革。これも昨年から農業試験村など数カ所でテストをしていた。
具体的には史実の情報を基に除草機を製作してテストしていたんだ。田植えと稲刈りに人手が必要なのは仕方ないが、除草なんかも結構大変なんだよね。しかも織田領では農繁期以外は賦役に出ている人が多い。
治安がいい尾張下四郡なんかだと、足腰が弱っているお年寄りと妊婦さんや、赤子を抱えたお母さんと幼子なんかが働いている村もある。
少しでも農作業の効率化は必要だ。
「尾張
尾張の農村は変わった。貴重だった鉄をふんだんに使った農具が当たり前に村にある。
昨年野分の復興で三河に行ったが、吉良領なんかは未だに木製の農具に刃先だけを鉄にしたものが使われていた。
尾張では現代でも見るような、鍬や鎌が当たり前にある。未だに貴重で村で管理する農具ではあるようだが、普及したことの意味は大きい。暮らしの水準だけではない。日常のあらゆるものが変わりつつある。
六角や北畠が改革に乗り出すのは相応の理由があるんだよね。
Side:望月源三郎
「何故、この程度のことで褒美が頂けますのでしょうか?」
わしは正式に出雲守様の家臣となった。元惣領ということで多少扱いが違うが、出雲守様にはわしから今後は元惣領という立場は忘れてほしいと願い出た。正直、わしが忘れたいのだ。
ただ、久遠家はよくわからぬことがあまりにも多い。
「それが久遠家のやり方だ。働きに応じて常に褒美が頂ける。それと米や酒に食べ物もな」
まずは出来ることからと信濃と甲斐の様子を書き記して提出したのだが、その褒美にと驚くほどの銭が頂けた。戦の武功ならわかるが、この程度のことで褒美とは信じられぬ。
出雲守様に訳を聞くも、久遠家のやり方と言われるとそうなのだと納得するしかない。元惣領ということで別格な扱いなのかと思うたが、それは違うらしい。甲賀から来る新参者も同じく驚くという。
それ以外にも日々の飯や酒すら久遠家から頂ける。いいのかと不安になるほどだ。
「はあ……」
「皆、最初は驚く。尾張でも久遠家は別だからな」
流石に飢えるほどではなかったが、わしでさえ日々の飯が雑穀の雑炊であることも珍しくはなかった。無論、米がないわけではない。されど本来の惣領でないわしが贅沢などすれば、如何様に言われるか分からんので出来なかったと言ったほうがよいか。
それが尾張望月家では、小者まで皆が毎日米の飯を食う。
「月に一度、雑炊を食うておる日がある。甲賀での暮らしを忘れぬようにとな」
ここでは雑炊を食うのは月に一日。元は滝川家の八郎様が始めたことだという。苦しかった甲賀の日々を忘れぬようにと僅かな塩のみの雑炊を食うのだとか。今では久遠様もそれを真似ておられるようで、久遠家の仕来りになっておるのだとか。
麦や蕎麦は粉にして料理する。同じ雑穀とはいえまるで別物だ。
「すでに信濃望月家を超えておりますな」
「禄は超えておらん。その辺りは殿が考えられたのだ。わしはまことに惣領などほしくないからな」
確かに禄だけで見ると信濃が上か。向こうは領地もある。俸禄だけの尾張望月家を軽んじておったのも事実。されど禄の意味がまったく違うとは。まるで謀でもされた気分だわ。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませぬ」
惣領がほしくない。今なら理解する。尾張望月家は一族の皆が満足する暮らしなのだ。厄介事が多い信濃の面倒など見ておれんというところか。
「互いにいろいろあったが、これからは共に生きるのだ。過ぎたことはよい。ただし嘘偽りと裏切りだけはするな。失態も構わぬ。殿は皆で同じ失態をせぬように学べと仰せになるのだ」
「畏まりました」
「正直、よき決断をしたと思うぞ。尾張ではすでに各々が勝手に領地を治めることはしておらん。いずれこれが世に広まるだろう。先に臣従したそなたを信濃の者らが羨む日も遠くあるまい」
武功もないのに褒美を頂き、米や酒を頂く。いささか申し訳なさと怖さがある。これほどのものを頂く対価として、わしらはいかに働けばよいのかとな。
そんなわしに出雲守様は教えてくださった。すでに尾張ではまったく違う国の治め方をしておること。そしてそれが久遠様によりもたらされたということなどだ。
信濃を離れて不安もある。領地を出る際には泣いておった者もおるのだ。されどわれらにはもう戻るところはない。
皆に話して聞かせねばならんな。久遠家の掟とやり方を。厚遇されるにしてもあまりに厚遇され過ぎて不安になっておる者もおるからな。
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