第990話・九鬼家の決断
Side:今川義元
「小笠原か。大人しく双方にいい顔をしておけばいいものを」
苛立つ己を律するように目の前にある茶を飲む。
「思うておったよりいささか早うございますが、仕方ありませぬ」
茶を点てておった雪斎も如何とも言えぬ顔をしておる。
三河者にわしへの忠義など望めぬのは承知のこと。まして相手はすでに格上の尾張とくれば誰が先に動くかの違いであろう。三河者に弱き今川に従うほどの義理もない。
弱き今川か。己でそれを認めねばならぬ不甲斐なさに情けなくなる。
「深溝松平と竹谷松平も直に寝返ると思われまする。一族で争うておるとはいえ宗家寄りの者らでございますれば」
であろうな。伊勢を見てもわかる。織田の力は日を追うごとに大きゅうなっておるのじゃ。まして織田は臣下に入った者を守ると評判。所領を召し上げられる懸念はあるが、飢えて困っておるという話もない。
「苦労をかけるな。雪斎」
すでに力の差は明らか。東三河と遠江が雪崩をうって寝返っても驚くほどではない。それを押さえておるのは雪斎じゃ。甲斐と信濃。ここを得れば斯波と織田とて今川を粗末には扱えぬ。
「お気を落としなされますな。東三河の離反など、すでにわかっておったこと。思いもよらぬ一揆にて、北伊勢を得た織田が遠江まで攻めてくるのはしばらくありますまい。それは今川にとって朗報でございまする」
気を落とすな、か。今川が甲斐と信濃を得る頃には、織田は如何程まで大きゅうなっておるのであろうな? 北伊勢ではもっと苦労をするかと思うたが、すでに落ち着いておるとのこと。民を三河の賦役に移すという信じられぬことをする余力もある。
確かに北伊勢を治めるために、今年は遠江まで攻めてくることはあるまい。されどあまりに早いのじゃ。織田の動きは。
「人質はいかがする?」
「お好きになされるがよろしかろうと思いまする。されど、殺したところで抑えにはなりませぬ」
東三河の国人からは人質を取っておるところもある。奴らをいかがするか悩むわ。
「仏の弾正忠か。人質を取らぬと言うても、結局国人らは人を送っておるそうではないか。上手いものよの」
織田は人質を取らぬという。されど学校という学び舎が那古野にあり、清洲で仕えねば名を覚えてもらうことすら出来ぬのだ。よほどの愚か者でなくば尾張に子らを出すであろう。それで忠義を示すのだ。
寝返った国人の人質など殺して当然。とはいえ比べられる相手は仏と呼ばれる男。鬼と呼ばれるくらいならばいいが、卑怯者や愚か者と呼ばれるのは我慢ならぬ。
「では人質は返しまするか?」
「致し方あるまい。守ってやれぬわしが悪いのじゃ」
面白うないが、先を考えて動かねばならん。ここで人質を殺せば、織田の遠江攻めで三河者は仇を討つべしとまとまってしまう。
尾張まで攻め上がり織田と斯波を降せるのならばいい。それが叶わぬのは明らかなのじゃ。とすると遠江で一戦交えた後のことも考えておかねばならん。
西は大人しゅうして、早う甲斐と信濃を落とさねばならぬ。
Side:久遠一馬
思いもよらぬ人物から会いたいと使者が来た。九鬼泰隆さん。先日の海祭りにも来ていた九鬼家のご隠居だ。
「さすがというべきかな?」
「うふふ、そうね。他の国人より一足早いわ」
良ければいつでも出向くというので、是非お越しくださいと使者に伝えた。そして今日、九鬼泰隆さんがウチの屋敷に来ている。メルティも褒めているが、九鬼家は動きが他の志摩水軍より早い。
どうせ臣従するなら早いほうがいい。そう考えてのことならたいしたものだ。
現れたのは六十くらいだろうか。おじいちゃんという感じだ。形式通りに挨拶を交わして互いに顔を見る。眼光は鈍ってはいない。並々ならぬ決意で来たことがわかる。
「内匠助様には是非、水軍のこれからをお教え願いたいと参上いたしました」
水軍のこれからか。泰隆さんの出方を見守っていたが、思いの外、直球だな。とはいえ待遇とか条件でないだけこの人は有能と見るべきか。
「船の案内は今後もなくなりませんよ。とはいえ船はこれからもどんどん優れた船が出てくるはずです。水軍は日ノ本と日ノ本の外を繋ぎ、外から守る役目になるでしょう。これだけは間違いないと思っています」
細々とした話は他で聞いているはずだ。知りたいんだろう。オレがなにを考えているのか。
「文永の役、弘安の役でございますか?」
「これをご覧ください」
文永の役と弘安の役。元の世界では元寇という名で知られていることだ。日ノ本の歴史でも数少ない対外戦争。これがまあいい意味で前例となっていて理解してくれる。
とはいえいつまでも唐・天竺・朝鮮だけを外国だと思ってもらっては困る。控えていた資清さんにこの時代の一般的な世界地図を渡して泰隆さんに見てもらう。
「これは……」
「唐、天竺、朝鮮。それらの国だけが日ノ本の外にあると思うのは間違いです。この世は広いのですよ。日ノ本よりも遥かに。わかりますか? 私の敵は隣国の水軍などではないのです」
泰隆さんは地図を見る手が震えているようにも見える。信じられない。そう思うのかもしれない。
しばし沈黙が支配する。一緒にいる資清さんもメルティもじっと泰隆さんを見ている。
「織田様に臣従致します。よろしくお願い致しまする」
それは突然だった。真偽を疑いもするだろう。更なる疑問もあるだろう。それをすべて飲み込んだようにオレには見える。
まっすぐこちらを見た泰隆さんは、そう一言告げて深々と頭を下げた。
「大殿に上申いたしましょう。正式にはそれからですが、九鬼殿に期待しています。共に励みましょう」
「はっ」
なにかあれば自分が責めを負うくらいの覚悟はありそうだ。泰隆さん自身はすでに歳も歳なので船での第一線には立てないだろう。とはいえ若い者を指導したりするのは期待したいところがある。
忙しくて後悔することはあっても、臣従して後悔することはないだろう。ほんと助かるよ。織田水軍はすでに海軍も創設したので人材はいくらあってもいい。
史実の海賊大名とは違うが、九鬼はやはり歴史に残るのかもしれないね。
◆◆
天文二十二年。二月。九鬼泰隆は織田家に臣従した。この年の年始の評定で北畠家が水軍衆は織田に従えと命じたとあり、北畠家公認の下での伊勢志摩水軍の改革が織田臣従の理由と思われる。
直前には蟹江海祭りがあり、その場で織田は水軍と海軍の合同観艦式を行なったことも臣従をした理由だと伝わる。
泰隆は臣従を決断する際に久遠一馬への目通りを願い出ていて、その席で臣従を決断したのだと滝川資清の『資清日記』にある。
一馬が水軍をどう考え、水軍の未来をどう見ているのか聞いたうえで臣従を決断したかったのだと後に語ったと伝わる。すでに日ノ本の外のことを考えていた一馬に泰隆は大きな衝撃を受けたようで、『己はなんと愚かだったのか』という言葉を遺している。
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