第989話・新しい生活
Side:久遠一馬
蟹江海祭りも無事に終わった。尾張ではそろそろ春が近いなと感じる日がある。
海祭りでいろいろ状況が動きつつある。北畠方の水軍衆は織田の定める海の法を守る方向で話が進んでいる。食えるようにしてほしいという嘆願はあるが、
この時代の志摩国は先に挙げた両郡より南の海沿いも入っており、そっちは海祭りにも来ていないところもあって態度がはっきりしていないが。
南に行けばいくほど北畠家への臣従も曖昧だった地域だ。国境はどこも同じように。まあ特に喫緊の課題になりそうなところはない。とりあえずは放置でいいだろう。
もっとも九鬼家を筆頭にすでに臣従も検討している家もある。細かい条件や体制、また領地にある城や一族の食い扶持などなど。聞きたいことは山ほどあるというのが本音だろう。水軍衆があれこれと聞かれているみたい。
九鬼家は九鬼泰隆さんが生きている。元の世界で海賊大名として有名な九鬼嘉隆の祖父になる。史実では死亡年すらはっきりしない人で、現状ではすでに隠居していたらしいが、実権は未だにあるようだ。
そうそう泰隆さんの息子の定隆さんも生きているみたい。史実では天文二十年には亡くなっていたと記録にある人なんだが。
志摩も間接的ではあるが尾張の影響があるから、死亡年が変わるのはさほど不自然ではない。史実の資料から外れることは今後増えるだろう。心してかかる必要があるね。
「やはり我らが食い扶持を奪うと懸念しておるようですな」
この日は佐治さんと清洲城で水軍のことで相談しているが、佐治さんは相変わらず他所の人たちが織田は利や食い扶持を奪うと警戒していることを嘆いている。
「申し訳ないが彼らの食い扶持を奪うよりも、儲ける術は他にいくらでもあるんですよね」
既得権の整理をしているので誤解されているが、一部のあくどい寺とかじゃない限りは収支はそこまで変わらないはずなんだけどね。
そもそも国人レベルの利とか食い扶持を奪ったって、たかが知れていることを理解していない。加えて共存共栄という価値観があまりない。奪うか奪われるかという考えが先にあるのがこの時代らしい。
説明しても疑いがなかなか晴れないのが難しいところだ。とはいえ強いところに逆らうには覚悟もいる。
まあ水軍衆はまだ物分かりがいいほうだけど。あちこちの情報にも接することが出来るので、もっと大変なところや厳しいところの話も聞くんだろうね。
「水軍衆は先行きが明るいんですけどね。これからはもっと繁栄しますよ。日ノ本の外には広い海があるんですから」
とりあえず北畠家の領海警護には大きな支障はない。志摩あたりに拠点がほしいが、それもなんとかなるだろう。水軍衆のことは佐治さんにお願いすることになる。
織田家のみんなも頼もしくなってきたし、任せるところは任せていきたい。
Side:望月出雲守
信濃から望月源三郎殿らが来られた。鎧兜や着物など持てるものを持ってきたようだ。
さほど多くならぬと聞いておったが、八十名を超える者がおる。
「増えたのは構わぬが、勝手に文を出してこちらの内情を知らせるのは禁じる。武田は敵対しておらぬが味方でもない」
増えたわけは、尾張に来なかった信濃望月一族の中に人を出した者がそれなりにおるからだ。家を分けるとまでは考えておるまいが、いささか信濃が危ういのは承知のこと。戻らなくても困らぬ者を源三郎殿に付けて出したというところか。
「心得ておりまする」
「久遠家は他所とは勝手が違う。戸惑うところもあろうが、飢えることはない。ただし裏切りと嘘偽りには厳しい故、それは気を付けられよ」
尾張に無事到着して安堵したような、不安なような顔をしておる。新参者の扱いなどいずこに行ってもそう変わるものではないからな。
信濃を出るまでには二度ほど襲われたそうだ。ただの賊なのか怨恨なのかわからぬが、よくあることと言えばよくあること。源三郎殿らは大丈夫であろうが、他所が出した者には間者も混じっておるやもしれぬな。気を付けておかねばなるまい。
「ふむ、まずは旅の疲れを癒し、腹いっぱい飯を食えばいい。腹が膨れれば人は落ち着く」
「まことにかたじけのうございます。どうかよろしくお願い致しまする」
いろいろ懸念もあるが、あまり不安を煽っても仕方あるまい。まずは飯を食わせて落ち着かせるか。源三郎殿も安堵したような顔となった。
立身出世を望むならば己の才覚と努力で励めとしか言えぬが、飢えずに生きられるのだけは確かなのだ。慣れれば誰も裏切りなど安易に考えぬであろう。
信濃の本家は当分落ち着くまい。誰が新たな惣領になるのかまだ知らせが来ぬ故わからぬが、武田と今川のどちらが勝つにせよ今しばらく戦が続く。
仮にいずれかが勝ったとて貧しき甲斐がまた奪いに来るのだ。信濃が落ち着くには甲斐を退ける力がいる。されどあのまとまりのない国ではな。
如何ともしようがないわ。
Side:三雲賢持
「今日も海は変わらぬな」
伊豆諸島の神津島。わしはここにおる。一族の者らと共に、この地で久遠家に仕えておる。
あれほど見たかった海も、毎日見ておると今度は甲賀の山々が懐かしく思える。人というものは愚かなのだなと己の身で思い知らされたわ。
「これは三雲様、今日は魚がよう捕れました。あとで屋敷にお持ちいたします」
この地の代官として、わしは領内を見回ることを日課としておる。これは殿からの
「すまぬな。ありがたくいただこう」
島の者は流罪にあった者の末裔や、他の島から渡ってきた者の末裔だという。久遠家が治めるまでは年に一度、外からの船が来る程度だったとか。
今では月に一度は御家の船が訪れて様々な荷を降ろしていく。この小さな島にそれほどの手間と銭を掛けてよいのかと不安になるほどだ。
ここでは魚がよく捕れており、塩は島で作っておる。島の者はわしの故郷では魚は貴重で滅多に食えなかったと教えると信じられぬと驚いておったな。甲賀とは違い、ここでは米が食えるのは生涯で数えるほどしかないという。
殿の命によりわしが島に来て最初にしたことは、島の者を集めて宴を開き、米の飯を振舞ったことだ。
そして島を見聞して漁業に差支えのない規模で賦役を始めた。湊と言えるところがない島だ。湊を整えて蔵を建てるように命じられておる。
賦役の報酬は食べ物となった。尾張では銭のようだが、この島で銭など渡しても使えぬからな。
島の者の数も多くない。当然ながら職人などおらぬので、それを報告すると久遠家の本領から職人らもやってきた。職人らはわしの屋敷から建てておるが、島の者の家もお世辞にもいいとは言えぬ。次の船ではもっと職人が来ると知らせが届いておる。
食べ物から農具や釘に至るまで無いと報告するとすぐに届く。米も鉄も貴重なはずなのだがな。
攻めてくる者もおらぬこの島で生きるのも悪うない。そう思えるようになった。
明日も海が穏やかだとよいのだが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます