第981話・桑名

Side:広橋国光


 都に戻りて、すぐに主上と主立った公家衆に此度のことを報告した。特に主上は尾張において皆が学問に励んでおると知ると、殊の外お喜びの様子であられた。他にも南伊勢の北畠と尾張の斯波が争うことなく栄えておるということには関心を持たれておられた。


「ホッホッホッ。写本とはの。そなたらしいといえ、上手くやったものよ」


 図書寮のことも主上を含め、主立った者らから異を唱える声はなかった。もっとも近衛殿下に至っては、吾が写本のことで上手く利を持ち帰ったことを面白げに口にされたが。近衛殿下も頃合いを見計らい同じことを考えておられたのやもしれぬ。


「まあ良かろうて。困窮する公家衆に糧を与えられるというものだ。三好も励んでおるが、織田と比べるとのう」


 都は相も変わらぬ。近衛殿下も仰る通り、三好も励んでおる。内裏の修繕とて、あれやこれやと口を挟む公家がおりて苦労も多かろう。


 さらに細川晴元は未だに若狭で健在であり、丹波勢もまた晴元の下知により三好を阻もうとしておる。尾張ほどとは言わぬが、もう少し励めと言いたいところであるが、難しかろうことは近衛殿下もご承知のことのようだ。


「そなたから見て尾張は如何じゃ?」


「……このまま尾張で終わるとは思えませぬ。されど決め手に欠けるのではとも思いまする」


 最早、尾張を無視して天下の政は出来まい。とはいえ斯波と織田が天下を握るには今一つ決め手に欠けるとみる。周防の大内然り、細川京兆然り。天下を動かした者らはおるが、長続きせぬ。少なくともここ数十年は。


 近衛殿下もそれをご理解されておられる様子。


「大樹が尾張と共にありてもか?」


「それは……」


 その問いは如何なる意味があるのだ? 大樹が斯波と織田と共に天下を? まさかそのようなことは……。


「とはいえもう一波乱はあろうな。今は動くべきではあるまい。そなたは写本のこと励むがいい。吾も力添え致そう」


「はっ、ありがとうございまする」


 大樹は六角の下で病の療養しておると聞き及ぶが、斯波と織田の動きに関わっておるのか? わからぬ。わからぬが、近衛殿下には思うところがある様子。


「さて、日ノ本の書物は久遠に如何なる知恵を与えるのかの」


 近衛殿下はそのまま障子を開けると、遥か尾張を見つめる如く、そうつぶやかれた。


 恐れもあろう。元は氏素性も定かではない日ノ本の外の者なのだ。されど武士もまた氏素性が確かとてろくなことをせぬ。主上を重んじる者を無下にも出来ぬ。


 吾は吾の役目をこなすしか出来ぬか。書物が後の世に残るのは決して無駄ではあるまい。




Side:久遠一馬


 近場でも意外と行ったことのないところってあるよね。オレの場合は桑名がそうだった。反織田の商人たちが一掃された後でさえも、行く必要がなかったというところもある。


「活気があるね」


 この日、視察としてそんな桑名に初めて上陸した。ここ桑名は昨年末までは一益さんが駐在して北伊勢に派遣中の軍の後方支援を行なっていた。もっとも今はその任を織田家家臣に引き継いでいて別の人がいるけど。


 桑名は公界という自治都市になる。その扱いが先日決まった。織田に完全臣従するというものだ。こちらはそこまで追い詰めたつもりはない。臣従しないなら別の湊を造るという噂は流したが。


 北伊勢の玄関口となる湊に自治という名で勝手にさせたままにしておくのはよくない。


 桑名の商人たちは出来れば公界のままでいたかったようだが、願証寺はすでに後ろ盾になる気もない。近隣に第二の蟹江のような港が出来ると考えたら臣従するしかなかったようだ。


「北伊勢に送る荷はここで降ろすことが多うございます故に」


 案内役は一益さんだ。駐在していただけに桑名のこともよく知るからね。


「湊と町は整理が必要かな」


「そうね。あまりよくないわね」


 町に活気はあるものの、区画整理もしていない町だけに乱雑な町に思える。火事でも起きると一気に大火になりそうだ。今日はメルティとすずとチェリーと来ているが、メルティの表情もちょっと困った感じだ。


 現状だとまだ桑名の町衆による自治から織田に移行したばかりであり、関所の設置もようやく始まったところ。蟹江で始まった検疫はすでに津島や熱田でもしていて、当然ここでもする。さらに織田領の港からの船は無税だが、領外からの船は港の入港税も取る。


「これ荷の積み降ろしは織田でやっているね。問題でもあったの?」


「はっ、幾度も荷の横流しなどあり、また湊の顔役と揉め事も起きました。その者は処罰しており、既にここにはおりませぬが、働ける者は三河の賦役に送り、必要な人は尾張から呼び寄せました」


 湊を見ていて気付いたんだが、船からの荷の積み降ろしなどを織田で監督してやっているんだよね。働く人の様子を見るとわかる。この時代の人に任せると乱暴なんだ。荷物の扱い方がとか人の扱い方が。


 一益さんから説明を受けるが、苦労したらしいね。桑名の町衆が素直に臣従したのもそんな細々とした騒動の結果もあるんだろう。


「ちょっと指導しに行くでござる」


「ダメなのです!」


 そのまま町に入るが、どうも雰囲気が良くない。荒っぽい連中が町中で騒いでいる。尾張だとそんな人たちは、警備兵が一声かけて騒ぐなと指導しているんだけどなぁ。


 すずとチェリーは我慢出来なかったんだろう。走っていってしまった。


 結果? さすがに乱闘にはならなかったよ。騒いでいた連中は謝って退散している。周囲には護衛の兵もいるからね。当然だ。


「申し訳ございませぬ。余所者の牢人がこのところ多く……」


 ちょっと不機嫌そうなふたりが戻ると、ちょうどこの町の警備兵が駆け付けるが、大変みたいだね。


「報告は書状であげて、牢人は何処から来ているのか調べるのでござる」


 オレとすずたちの姿に顔を青くする警備兵だが、すずは怒ることなく指導している。こういう仕事も出来るんだよねぇ。性格的にあまりしないが。


「北伊勢の牢人だろうね。軍の方から報告が上がっているよ」


 桑名の治安を悪化させているのは、北伊勢の元国人や元土豪の関係者の牢人だろう。素直に織田に従った人や親戚縁者を頼って何処かに行った人。さらに近江に行った人もいるが、北伊勢に残って牢人になった人もいる。


 この場合、罪を犯したり織田の法に逆らわないと牢人として残ることは可能だ。一揆の残党もいて北伊勢の治安もよくないので、寺社や商人が雇う場合もある。桑名から西に行く人の護衛なんかで仕事があるんだろう。


「ちょっと調べてくるのです」


 チェリーがオレの話に調べに行くとすずも一緒に行ってしまった。まあ護衛と忍び衆も同行しているので大丈夫だろう。賭場とかに行って騒ぎは起こしそうではあるが。


 関ヶ原とか他の町だと牢人に仕事を与えているところも結構ある。現地の裁量でそのくらいは自由にさせている。ここは織田領に移行したばかりでそこまで手が回らないんだろう。


 まさかとは思うが、背後で誰か煽ってないだろうな。チェリーもそれを危惧したんだと思う。


 さて、オレたちはこの後、具教さんと合流して、伊勢と北畠家との今後の協力について意見交換をすることになっている。


 水軍の件も志摩水軍とかが戸惑っているらしいからね。




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