第980話・止められない流れ
Side:久遠一馬
「致し方あるまい。幡豆の小笠原をいつまでも待たせておくわけにもいかぬ。吉良の体裁もある」
この日、清洲城にて信秀さんはひとつの決断をした。
幡豆小笠原家。信濃小笠原家の分家筋で東三河と接する西三河の国人になる。三河においては吉良家と関係が深く行動を共にしており、臣従に近い立場と言ってもいいだろう。
史実においては三河一向一揆の際にも吉良家と一揆に加担するつもりだったようだが、この世界においては織田と今川で東西三河を分ける形になったことで今川方になった人たちだ。幡豆小笠原は今川にさほど恩があるわけでもなく、吉良家と敵対するような立場になったことを困惑していたと言ってもいい。
吉良家の仲介で織田に臣従したいという話があったものの、今川方の出方を見極めるために保留していたんだよね。臣従の条件が今川より厳しいものの、それでもいいというほどだったんだけど。
結局この日、臣従を認めることが決まった。
「恐らく兵を挙げることはないと思われます。現状で兵を挙げると今川は終わりです。もし兵を挙げても幡豆小笠原ならば守れます」
今日は久々にエルと登城している。まだ育児休暇中だが、子供たちを見てくれる人はいる。エルの提案で少しずつ仕事を再開していくことにしたんだ。
そんなエルの進言に評定衆の皆さんの顔つきが少し変わる。『今川は終わり』、その言葉に反応してだろう。東三河は朝比奈一族の領地もあるが、もともと三河の国人だった者たちはそこまで今川に全振りしているわけではない。
今川と血縁があったり人質を出していたりと各家で事情は違うが、停戦条約で止めているとはいえ織田と今川の力の差は国人や土豪でも分かるほどになりつつある。
仮に現状で今川と戦になると、東三河は雪崩をうって状況が変わるだろう。それに今川と本格的に争うとなると、斯波家の悲願でもある遠江奪還。それを実行しなくてはならなくなる。
甲斐と信濃で対武田では有利に動いている今川だが、それでも甲斐は未だ武田が死守しており、信濃の反武田の国人も今川に臣従をしたわけではない。今の状況で織田と争い東三河と遠江で争いが始まれば甲斐と信濃の情勢もまた変わる。
さすがに北伊勢の一揆掃討ほど楽な戦にはならないだろうが、今川にとっては悪夢の展開となる。太原雪斎がそんな展開にするとは思えないんだよね。幡豆小笠原に臣従を許しても大きな争いは起きないだろうということだ。
「松平分家と奥三河も今川を見切りつつありまする」
さらにエルの言葉に続けるように三河の状況を語ったのは緒川城の水野さんだ。あっちに縁が多いんだよね。水野さん。もとは弾正忠家の同盟者だったくらいだから。
そもそも松平分家にとって、甲斐と信濃なんて知ったことじゃないんだよね。西三河から逃げ出した今川の信用はがた落ちだ。松平宗家に近い分家もいるし。
奥三河はもう少し深刻だ。山奥であり三河から信濃への街道を通る人から徴収する税で国人が暮らしているような地域であるものの、尾張から信濃へは奥三河経由から東美濃経由に流れが変わりつつある。
街道整備も細々とではあるがしているし、治安だって三河と比べるとマシだ。なにより勝手な関所を廃止したことで、美濃に入る時の関所での税を払えば後は自由に通行出来るのが大きい。
東美濃と信濃の間には、特に脅威となる敵らしい敵もいないので国境沿いの砦建設などは未だ計画のみで動いていないが、織田家には信頼があるので問題は起きていない。
人が寄り付かなくなると苦しいんだよね。奥三河だと。あそこは史実でも確か一時期織田に付こうとしたことがあったはずだし。
「弱い主家など従うに値せずか。織田が劣勢と見れば一気に逃げだしそうだな」
三河の情勢は織田に流れている。評定の雰囲気も悪くないが、そこで皮肉とも受け取れることを口にしたのは信長さんだ。
「そう言うてやるな。皆、生き残ることで精いっぱいなのだ。食わせておればまず裏切らぬ。そもそも国の治め方が違うのだ。同じと考えるは間違いであろう」
評定衆は信長さんが不機嫌なのかと少し困惑したような様子となるが、そんな信長さんに苦笑いを浮かべて意見したのは信康さんだった。
「であるか」
「そなたは賢い。故に愚物を嫌うが、愚物は愚物なりに一所懸命なのだ」
信康さんの言葉に、それもそうかと納得した様子の信長さん。その姿に織田家の人間関係も変わったなと思う。
信長さんの人となりも考え方も理解している人が増えた。特に信康さんなんかはエルが信長さんに諫言している様子を何度も見ている。一緒に仕事をすると話す機会も増えるし、お互い気心が知れるとこうして意見も出来るようになる。
領地制による国人の連合体である武家だと、どうしても各家の事情や都合が優先される。だからこそ領地整理と俸禄化なんだよね。信長さんもわかっているはず。まあわかっていてもウンザリするというのが本音だろうけど。
そうそう、現状だと西三河を守る拠点となる城か砦。これも新しいものは造っていない。燃やされた岡崎城は再建しているけど、下手に新しい城を造っても拠点が完成する頃には必要なくなりそうだし。
関ヶ原は要所であり近江への押さえの意味もあるので必要だったが、遠江と駿河の今川相手にあのレベルの城は必要がない。
まあ野分の被害がありそっちの復興を優先させたこともあるが。
「義元は未だ諦めておらぬようじゃな。力の差を知らぬのか、知っても諦められぬのか。いずれにせよ頑なよの」
信長さんの発言で変わった雰囲気を戻したのは義統さんだった。半ば呆れたように今川について言及した。
「確かに義元本人からは詫びがありませぬからな」
信秀さんはそんな義統さんの発言に少し考えて答えた。
雪斎と寿桂尼。あのふたりは本気で和睦を願っていた。それが未だ進んでいないのは義元本人の動きがないからだ。
まあ遠江の問題が片付くまで無理だと言えばそれまでだが、非公式にも義元本人からの手紙とか来ていないようなんだよね。
「地図を見ると対抗出来そうではありますな」
「そうか? わしならご免だ。甲斐は上国と言われておるが、酷いものだと聞くではないか。第一、海で勝てぬのはいかがするのだ? 海沿いの城に兵を張り付けておくのか?」
駿河遠江に甲斐と信濃。恐らく今川の戦略はこの四カ国を治めることで織田に対抗するというもの。間違ってはいない。とはいえ重臣の皆さんは無理だろうと言いたげな顔でそれぞれに意見を口にしていく。
「我らは望まずとも領地が広がるが、他家はそうはいかぬ。駿河すら失いかねんという危うさを義元は理解しておらぬのではないのか?」
「確かに悪くても駿河は残ると考えていような。今川ほどの名門が滅ぶなど、そうあることではない」
今川が何故これほど頑ななのか、議論はそんな方向に進んだ。敵を知りその考えを推測する。この時代でもすることだ。
ただし織田家ではウチや忍び衆が集めた情報を基により正確な推測が出来る。
皆さん、今川が思った以上に頑ななことで議論が盛んになる。北畠、六角、朝倉もそこまで頑なじゃないからね。
今川と同じく因縁がある朝倉ですら、大内義隆さんの法要で当主である朝倉延景さんが来たことで雰囲気が変わった。朝倉家当主が和睦を望んでいる。その事実は大きい。
頭を下げると少しは考えようかという雰囲気になるんだ。今川にはそれがないのが厳しいところ。
太原雪斎。彼は優秀だが、大内義隆さんの法要に義元を引っ張り出せなかったことが彼の限界なのかもしれない。
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