第979話・甲斐の別れ
Side:久遠一馬
気が付くと閏一月十三日を過ぎていた。その日は政秀さんが史実で亡くなった日だ。大武丸と希美の百日祝いの準備で忘れていたよ。
思えば史実よりも長生きしている人は多い。信秀さん、信康さんもそうだし、熱田神社の千秋さんもそうだ。
政秀さん、筆頭家老の仕事は減らしているが、あちこちからの相談事は相変わらず多いと先日教えてくれた。織田家家臣は元より、寺社や商人からも相談事があるみたい。
ウチにも相談事が多いが、いろいろと新しいことも多いだけに古参の政秀さんの信頼度には敵わないんだろうな。
あと最近だと吉法師君が描いた政秀さんの絵を、嬉しそうに見せてくれたこともあった。
ラーメンが好きで、自分の屋敷の料理人にも作らせてよく食べているみたい。なかなかウチのラーメンに敵わないなと笑ってこぼしていたこともある。
良かったなと素直に思う。尾張に来た頃からお世話になっている人だ。政秀さんがいないと今の織田家も久遠家もなかったかもしれない。
長生きしてほしい。太平の世で昔を懐かしみつつ、若い人たちに苦労を語ってほしいと思う。
「殿、やはり難しゅうございますな」
少し考え事をしていると太田さんが困った様子で報告にきた。
「やっぱりか。厄介だね。坊さんは。仏に仕えているのに人を平気で殺めるわ、同じ仏に仕える坊さんたちを敵視して争うとか信じられないんだけど」
太田さん、元僧籍にいたという経歴もあり、今回、実は北伊勢の一向宗でも高田派に属する寺との交渉に加わってもらったが、上手くいかなかったらしい。
一向宗高田派。加賀で国を乗っ取ったのは本願寺派であり、史実で一向一揆を起こした願証寺や本證寺も本願寺派だ。そんな過激な本願寺派と比較すると大人しいはずの宗派なんだが、はっきり言うと本願寺派と仲が悪い。
当然ながら願証寺との関係も悪いようで、本願寺や願証寺と親交がある織田を警戒しているようなんだよね。
「申し訳ありませぬ」
「いや、よくやってくれた。今後は個別に交渉する。駄目なところは放置だな。どうせ統治の格差で苦しくなって頭を下げるよ」
本願寺派の願証寺が温和な路線で、高田派が強硬とまではいかないが交渉決裂とか元の世界の史実を思うと不思議に思うが、積み重なった遺恨がいかに大変かは今川との関係でオレも十二分に感じている。
伊勢の長野領にある無量寿院がこの辺りの高田派の本山らしく、わざわざ長野家に一声掛けてまで人を派遣して交渉したのに。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いってことか。
願証寺の末寺は昨年中に終わらず少し時間がかかったが、概ね領地整理と守護使不入の権限剥奪などを受け入れることで合意した。
願証寺の末寺のほうは三河の末寺の現状などで理解が早くて助かった。各地の寺社に何度も説明したが、織田は寺社の食い扶持を一方的に奪う気はない。
守護使不入は本当に三河本證寺が悪用した影響が今も大きい。領地整理は統一した統治には必要だということ、寺社も本来の為政者に従い人々の安寧を祈る姿に戻ってほしいだけなんだ。
高田派の末寺は正直、現状も対立の原因もあまり理解していない。北伊勢の赤堀家は菩提寺が高田派の寺らしく、なんで織田と上は争うのかと赤堀家に訊ねていたなんて話もある。
北伊勢に駐留する軍によれば、高田派は先の一揆で織田や北畠と協力した願証寺の末寺と違い独自に寺領を守っていたようで、被害も結構出たらしく織田に期待しているところも多いと報告が上がっている。
中には早々に願証寺派に鞍替えした末寺もあるというくらいだ。
一揆から寺領を守ったところで原因となった野分の被害はある。寺領の領民が飢えているところもあるっていうのにさ。
願証寺の末寺なんかは、早々に織田に従い駐留する軍の指示に従って寺領の領民を賦役に参加させている賢いところもある。
とりあえず従うと誓紙を交わしたところは、柔軟に支援するようにと決まっているからね。大変な中でみんな悩みながらも頑張っている。
交渉が大変だけど、今後は個別に寺と交渉するしかないね。
Side:望月信雅
尾張と比べるわけではないが、甲斐は貧しいのだと改めて思うた。久方ぶりに訪れた躑躅ヶ崎館は静まり返っておる。御屋形様が騒がしいのを好まぬのかもしれぬが、尾張望月家の屋敷よりも静かだといささか物足りなさを感じてしまう。
隠居を信濃望月家の者らに告げると多くの者は異を唱えた。わしの
家中は武田と今川の間で揺れておる。武田に従うべきだと考える者らは、わしの跡がいかがなるか気になる様子。今川に寝返るべきだと考える者は、わしの首で今川に寝返りたかったのであろう。
誰も己が新たな惣領となると言わぬことが望月家の現状だ。今しばらくこのままで成り行きを見たい者が多いのだ。
結局、わしは隠居をすると押し切った。嫌気が差した。その一言に尽きる。わしはわしの家と血を残すことを考えるべきなのだ。幸いなことに尾張望月家がまことに尾張に来るならば助力は惜しまぬと言うてくれた。
身分は下がるが、いずれにせよ降って湧いたような惣領。最早未練はない。
「そうか。今までよく仕えてくれた。少ないが褒美と感状を出そう」
残るは御屋形様の許し次第であったが、御屋形様は特に驚きも怒りもなく淡々と許しをくださった。わしのことなど如何様でもよいということか。
無論、理由は述べた。身体の調子が悪く戦に出られぬというもの。その治療もあり一族を連れて尾張に行くと言うと気遣ってもくださった。嘘だと気付かれておろうが、特にお叱りもない。
後継については特にわしからは言うことがない。御屋形様がお決めになることだ。
「達者で暮らせ」
その一言を最後に褒美と感状を僅かに頂き、御屋形様の下を辞した。
わしはそのまま御屋形様の下で仕えておる弟たちを連れて信濃に戻る。父はそれなりの歳で既に隠居しておるが、わしの話を聞くなり、すべてわしに任せると共に尾張に行くことになった。
もともと武田に降ったのは父なのだ。現状の武田にも望月一族にも思うところがあるのであろう。
共に尾張にいくのは父とわしと弟らなどと、その家臣らだ。行くなら早いほうがいい。すでに城では支度をしておるはず。春が来る前に出ていかねば、わしの領地を次に治める者も困ろう。
まさか、生まれ育った信濃を出ていくことになるとはな。この地で生きて、この地で死ぬ。それが当たり前だと思うておった。
先祖に申し訳がないと己の不甲斐なさに涙が出そうになるが、このままではいかんのだ。
なにが一族だ。なにが惣領だ。結局、皆が己の都合で好き勝手にやっておるだけのこと。それを束ねる力もないわしにはそのようなものは不要だ。
一から出直そう。遠く尾張の地から信濃望月一族と武田の行く末をみてやろうぞ。
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