第971話・志摩水軍の戸惑い

Side:久遠一馬


 一月が終わるとまた一月になった。正確には閏一月。太陰太陽暦において数年に一度あるものだ。太陰暦、月の満ち欠けを基にした暦だが、季節の誤差を修正するための期間になる。


 太陽暦だと大体四年に一回の二月二十九日なんだけどね。太陰暦は誤差が大きい。


 まあ冬であることに変わりはない。尾張でも雪がちらついた日が何日かあった。


「燃料と塩の消費が予想以上に増えているんだ」


 オレは暖房の利いた部屋で大武丸と希美の相手をしつつ、エルに少し気になることを相談していた。


「暮らしが変わっていますからね。そのくらいは想定の範囲内でしょう。少し予想よりも早いですが」


 燃料となる薪や炭と塩は戦略物資でもあるし、日常生活を営むうえで必要不可欠な品でもある。なるべく価格が上がらないように努力をしている。


 とはいえエルも言うように尾張の発展と共に暮らしも変わりつつある。主に雑穀と野草に塩を僅かに入れた雑炊だけの食事から、粉屋が売る小麦粉や蕎麦粉を使ったすいとんのような料理を食べるようになったし、米も晴れの日以外でも食べられる人が出てきている。


 無論、主食が雑穀の雑炊であることに変わりはないが、味付けの塩を多少増やして食べるくらいはしている家庭が多いのだろう。


 燃料もまた顕著だった。清洲・那古野・蟹江・熱田・津島では人口増加が著しく、燃料消費量が特に増えている。


 山の村と知多半島で栽培を試している竹を使った竹炭や、山の村産の高品質な炭もあるが、消費量の全体は依然として旧来の非効率な生産で作られた炭と薪になる。


 ああ、炭団たどんはかなり増えている。木炭は製造時に売り物にならないレベルの細かいものが大量に出来ることもあり、それらを接着剤の代わりに多少の海藻を混ぜて丸く固めて形成したものが炭団になる。


 これは実は当初は山の村の専売品だったが、すでに炭を売る商人にも教えているので生産量は劇的に増えた。領外に漏洩する懸念はあるが、燃料消費量が増加していたことと、織田家の領地も増えて力を付けたことで解禁したものになる。


「塩は三河で増産かなぁ」


「そうですね。現状の増産体制では間に合わなくなる恐れがあります。こちらから指導が必要でしょう」


 塩に関して、海沿いでは割とあちこちで作っている。販売するほどでなくても、自分たちで消費するくらいとかそんなレベルのところもある。


 とはいえ醤油や味噌など塩を結構使う調味料は今も増産されている。ウチで持ち込むのは久遠醤油、久遠味噌と通称で呼ばれており、主に織田一族と重臣などに贈る程度だ。これがまた評判がいいんだよね。当たり前だけど。


 ただ尾張産の醤油と味噌も尾張醤油、尾張味噌と呼ばれていて人気で領外からも需要がある。結果として塩の消費量は増える一方というわけだ。


 尾張だけで見ると塩の生産量は思ったほど増えていない。沿岸部の領民が統合された水軍衆に働きに出ていることや、大型の網での漁業に海苔の養殖などに人手が割かれていることが原因だ。知多半島に至っては更に、今まで放置されていた山の植林や内陸部での芋類の生産などの仕事が増えたこともある。


 現状で塩の生産を拡大出来るのは西三河だろう。たしか揚げ浜式塩田で塩づくりをしているはずだ。そう言えば『忠臣蔵』に塩作りを原因とする説があったらしい。揉め事の原因に挙げられる位なら、生産地には向いているのだろう。


 炭はすでに昨年から植林と炭窯の伝授を始めているので、遠くないうちに効率的な生産が出来るはずだが。


「難しいよなぁ。あれこれと同時並行で進めないと大変なことになる」


「うふふ、もう少しすれば織田家で出来ることが増えますよ」


 なんというか、大武丸と希美が生まれて以降、少しお母さんの顔をするようになったエルに励まされるように言われるとやれる気がする。


 正直、難しいのはみんな一緒だからね。今川とか武田が聞くと激怒するだろう。あっちは生きるか死ぬかのレベルで潰し合っているんだからさ。




Side:九鬼泰隆


「新しき御所様は本気か」


 織田との同盟、その噂は昨年からあった。新しき御所様は前々から尾張に幾度も足を運び、誼を深めておられたのだ。


 今や日の出の勢いの織田だ。そのうち落ちると軽んじておった者も多かったが、結果は大きゅうなるばかりで最早手が付けられん有様だ。


「殿、いかがなさるおつもりでございますか?」


「従うしかなかろう。まさか戦というわけにもいくまい。気に入らぬなら好きにしろと言われたが、まことに好きに致せば攻められても文句は言えんのだ」


 水軍衆は織田に従え。分かりやすいめいだ。海では勝てぬ、ならば織田に守らせてしまえと考えたのだろう。失うものもあろうが、家の存続が危ういということでもない。織田は北畠家に随分と気を使うておるからな。


 織田は水軍衆を統一したと聞く。それと比べてこちらは寄せ集めだ。同じ志摩の水軍衆ですら油断ならぬ。戦にはいたらねど小競り合いが絶えず、勝手ばかりする水軍衆を見限ったというのが本音か。


「されど、あまりに勝手ではございませぬか?」


 家中の者は新しき御所様の命にいささか不満らしい。何故尾張者になど頭を下げねばならぬ。そう口にする者もおる。確かに今の志摩は、尾張や大湊に行く船が多く通るので食うに困るわけでもない。


 織田の船は志摩に近寄らぬので税を払わぬが、言い換えればこちらに口出しもしなかった。我らとしては南蛮船は無理でも、あの久遠船が欲しかっただけなのだが。従わぬ者に与えるものはないということか。


「致し方あるまい。北畠家には北畠家の都合がある。我らとて命をかけて北畠家のために戦う気などないのだ」


 折り合いを付けたのであろうな。新しき御所様は特に織田好きだと評判だ。


 そもそも当家を筆頭に志摩の水軍は、本流が紀伊や熊野にある者もおる。北畠家のために命を懸けて忠義を誓う者が如何程おろうか。北畠家は北畠家の家を守ることを考える。おかしなことではないのだ。


 『望まぬなら好きに致せ』この一言を言える力が北畠家にはある。仮に水軍衆や国人衆が謀叛を起こしても勝てまい。海は織田の水軍が相手だ。陸とて北畠家に勝てるほど一枚岩になって謀叛など起こせん。北畠家が織田に援軍を頼めばと恐れるからな。


「されど織田は所領の放棄を求めておるとか」


 家臣らの反発の理由はやはりそこだ。従い頭を下げれば今まで通り生きられるなら文句もないのであろうが。


「さてな。織田には織田の都合とやり方があるはず。我らの都合など考える必要がないのであろう。そなた、己より弱く必要のない相手のことをそこまで考えるか?」


 条件は悪うない。俸禄という形で銭を与えられるが、暮らしは間違いなく良くなる。とはいえ生まれ育った土地を捨てろと言われると、すんなりと納得する者は少なかろう。


 北畠家も織田も、我ら志摩水軍衆を配慮してまで要らぬというのが本音か。仮に長野との戦に勝てば、次は織田に従わず勝手をする志摩の水軍衆が攻められたとしてもおかしなことではない。


 強き者が弱き者をいかに扱うか。それは強き者の勝手。


 北畠家も織田も今のところ従わぬ者らを従えようとはしておらぬ。臣従しろとも言われぬのだ。されどそれを鵜呑みにするのは危うい。


「もう少し織田と話す必要があろう。こちらの話を如何程聞いてくれるのか? 見極めねばならぬ。皆がまことに食うてゆけるのかも含めてな」


 家臣らも不満ではあるが、戦をするわけにもいかぬのは理解しておる。とにかく頭を下げて粘り強く織田と交渉するしかあるまい。


 幸いにして向こうも話をすることには異論はないと聞くからな。




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