第965話・結婚前夜
Side:滝川一益
「思い出すな。そなたが甲賀を出た日のことを。わしはそなたよりも慶次郎のほうが甲賀を出てゆくかと思うておったのだが……」
「慶次郎はああ見えて父上や一族の者のことを思うております。某にはあやつほど我慢が出来なかった」
婚礼の儀の前夜、わしは父上とさしで酒を酌み交わす。外は冷たい真冬の風が吹いておるのが聞こえる。殿より頂いた南蛮行灯と南蛮暖炉のおかげで部屋は明るく暖かい。
甲賀の城は冬には冷たいすきま風で凍えんばかりに寒かったことを思い出す。
昔を懐かしむ。わしもそんな歳になったのであろうな。父上がこぼした昔話に懐かしさを覚える。
山と田畑しかない甲賀で生涯を終えるのが嫌だった。残る父上らが困らぬようにわざと騒ぎを起こして甲賀を出るという形をとったのだが、やはり若かったのであろうな。
海が見たいと西へ行った。堺にて鉄砲をなんとか習うと、諸国を巡ろうかと旅をした。尾張にて南蛮船と大砲をみて仕官して以降、信じられぬような日々の連続であった。
近衛殿下には先見と強運を持つ男と言われたが、実のところあったのはせいぜい強運だけであると思う。殿やお方様がたと比べると、わしの先見の明などないも同然。
「これで滝川の家も安泰であろう。なんとか先祖に申し訳が立つ」
父上はそろそろ四十代半ばを超えたはず。気付けば歳をとったなと思う。一心不乱に久遠家にお仕えしておる父上の名はすでに都でも知られておると聞く。
忠義の八郎。巷ではそう呼ばれておるが、殿は忠義もあるものの、父上の働きが誰よりも優れておる故の立場なのだと以前に言うておられた。
田畑を耕し日々を生きて、決して武芸も優れておるとは言えぬ父上の隠れておった才が久遠家で発揮された。わしですらそう思う。
殿やお方様がたは我らとは違う生き方をしておられたのだ。そんな殿やお方様がたのお考えと思いを皆に伝えて、
いざ父上の代わりをしてみるとこの難しさに頭を抱えたこともあるのだ。
お清も殿やお方様がたと仲睦まじくしておる。わしが婚礼を挙げれば、ようやく父上もひと息つけるのであろうな。
Side:望月太郎左衛門
養父殿に呼ばれて久々に共に酒を酌み交わす。今年も松の内が終わって早々に北畠家のこともあり養父殿は忙しく働かれておるが、今宵はご機嫌もいい様子。
「ジュリア様もご懐妊とはめでたいの。千代女もいずれ子が出来るやもしれん」
「はっ、それは願ってもないこと」
「今のうちにそなたに言うておくが、仮に千代女に幾人の子が出来ようとも望月の家督はそなたのものだ。子はすべて殿が久遠家の子としてお育てになるとのこと。妙な気を利かせずそなたも早う子を作れ」
今年の正月に養子になった身とはいえ、当然ながら未だ臣下として振る舞っておる。そんなわしを養父殿は気遣ってくれておるのか。
確かに千代女様に子が生まれれば、家督はお返しすべきだと思うておったが。
「某はいつでもお返しいたします」
「殿が案じておるのだ。必要とあらば、そなたを別家として召し抱えるともおっしゃられた。だが望月の家はそなたに任せることにした。久遠家はまだ新しい家だ。そんな久遠家にてお家騒動の前例になりそうなことは残せぬ」
「養父殿……」
「亡き弟も、元はあのようなことをする男ではなかった。地位や欲は人を狂わす。久遠家にてお家騒動だけは起こしてはならん。それだけは肝に銘じよ。そして我らは久遠家にお仕えする尾張望月。信濃や甲賀を見捨てるとは言わぬが、引き摺られてもならん」
「畏まりましてございます」
甲賀望月家を譲ったご舎弟のことを話す養父殿は、如何とも言えぬ顔で酒を飲んだ。
よくある話といえばそれまでだ。とはいえ養父殿もまさか実の弟があれほどの失態を演じるとは思いもしなかったのであろう。
同じ過ちは二度と起こせぬと養父殿は肝に銘じておるのであろうな。それと信濃が口の
「立身出世も難しきことよな。八郎殿がいかに優れておるかわかるわ」
「確かに……」
少し厳しきことを口にした養父殿だが、言いたいことを言い終えてすっきりなされたのか笑みをこぼしてわしに酒を注いでくださった。
滝川家の八郎様。あのお方は未だに己を土豪上がりだと戒めておられる。されど一族をまとめ、生まれも身分も違う久遠家家臣団をまとめておられるのはあのお方だ。また本家とも揉め事がないと聞く。
養父殿も決して劣ってはおらぬが、元の身分を思うと八郎様のほうが凄いと言えるのかもしれぬ。
「よいか。悩み困った時にわしがおらずとも、八郎殿や殿に必ず話すのだ。火急の折はお方様がたもおられる。己ですべて始末をつけようなどと思うなよ。それが久遠家の掟だ。さすれば望月の家は安泰であろう」
信濃のことも頭にあるのであろうな。惣領である信濃の遠江守様が一族をまとめきれず養父殿に助けを求めたという。
難しきことよな。一族をまとめ家を背負うとは。思えば今まで己のことだけを考えておれば良かっただけに気楽だったのだな。
精進せねばなるまい。
Side:久遠一馬
「もう少しお飲みになられますか?」
「いや、もういいよ」
今夜はお清ちゃんと千代女さん、それとウルザとヒルザなどと寝所を共にしている。寝酒にとみんなで飲んでいたお酒もなくなり、お清ちゃんがお代わりを持ってこようとするが止める。
「あれから三年ね。早いわね」
ヒルザはすっかり自分たちに溶け込んだお清ちゃんと千代女さんに、クスッと笑みをこぼした。
心配していたんだろう。ウチに嫁ぐって外国人に嫁ぐようなものだし、価値観も生活習慣も違う。細かい違和感とかもないわけじゃないだろうし。
「ホッとしております。滝川の家も望月の家もこれで安泰でしょうから。私とお清がわがままを申したために、これほど遅れたとも思えますので」
千代女さんはそんなヒルザに笑みで答えつつも、少し申し訳なさそうにして本音を語った。
合理的な判断で言えば、自分たちがそれぞれ滝川家と望月家に嫁ぐべきだ。そう思っているんだろう。彼女たちからすると、本領にも一族や血縁がほしい人たちがもっといると考えている節がある。
強引に割りこんだとでも思っているんだろう。
まあ個人の想いや願いと一族や家族の想いや願い。いろんなものが絡むのが結婚だしね。元の世界だって本人同士の意思だけで決めたりすると問題になったりするからね。ふたりが悩むのも無理はない。
「あら、私はふたりのそんなところを評価するわ。己の意思を貫く。そのくらいの気概がないなら共に生きていけないから反対していたわ」
ただウルザはそんな千代女さんが少し驚く本音を語った。
「ウルザ様……」
「やり方なんていくらでもあるのよ。滝川と望月を守ることも。己の意志と想いを貫けば私たちが力になるわ。私がふたりに求めるのは強い意志。それだけよ」
お清ちゃんも驚いている。まあ一緒に住んでいない分、腹を割って話す機会があまりなかったからね。ウルザに限らず、ふたりが強い意志でオレに嫁ぎたいと待っていたことを評価する意見は多かった。
血縁よりも個人の想いや意思。ふたりがこの場にいるのは、それが理由だろう。
まあ傍にいると情も生まれるし、嫌いではなかったんだけどね。オレも。
一益さんと太郎左衛門さん。ふたりはどんな家庭を築くんだろう。お節介にならない範囲で見守ってあげよう。
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