第962話・動く者と動けぬ者
Side:神戸利盛
年明けて松の内も過ぎぬというのに、北畠の若殿に呼ばれて霧山御所へとやってきた。北伊勢の国人が同じく呼ばれたが、関はおらぬな。
「正月早々にすまぬな。年始の評定の前に話をしておきたくてな」
御所様が隠居をなされて若殿が家督を継がれるという。もっとも当面は御所様が引き続き差配するのかと思うたが、いかにも違うらしい。
「尾張を見たそなたらはわかっておろうが、すでに世は変わりつつある。六角もまた尾張に倣い国の新たな治め方を模索しておるのだ。北畠家でも変えてゆかねばならん」
世は変わりつつあるか。確かにそうと言えよう。土豪や国人は領地を手放して織田の下で働く。面白うないといえばその通りであるが、あれならば謀叛は確実に減る。それに村や土豪や国人同士が争うて、小競り合いをすることも止めさせられるかもしれん。
とはいえわざわざ呼ばれるとは、まさか所領の召し上げを考えておられるのか?
「そなたたちには織田に臣従をしてもらいたいと考えておる。織田と北畠をそなたらが繋いでほしいのだ」
皆、同じ懸念を抱いておったのであろう。険しい顔で若殿の言葉を待っておるが、それは予期せぬ意外な言葉だった。
若殿は語られた。このままいけば、いずれは北畠家も織田に臣従をする日がくるやもしれぬと。子らは学校にて学問と武芸を学び、民は病院にて助けられる。織田の治め方は世を変えるのだと若殿はお考えらしい。
「若殿、あえて申しあげまする。それほど上手くいきますかな? 尾張は久遠の商いで栄えておるはず。内匠頭様の今ならばよいのでしょうが、次はこのまま上手くいきましょうか?」
皆が戸惑うておるのがわかる。さもあらん。世が移り変わるのは仕方なきこと。北畠家とてそれは同じ。されど、このまま尾張が上手くいくかは疑念があると思う。特に久遠だ。あの家を内匠頭様以外が上手く従えてゆけるのか?
「その懸念はわかる。だが尾張介となった三郎殿なら懸念はなかろう。一馬を召し抱えたのは尾張介殿だ。それにな、武衛殿と内匠頭殿が天下をまとめてしまえば如何する?」
思わず息を呑んだ。天下。北畠家の若殿がその言葉を使うと果てしなく重い。かつて南朝を支えておったのは北畠家なのだ。そのことを若殿が知らぬはずもない。
「御所様は如何お考えなのでございますか?」
「父上はわしのやることに反対はせぬが賛成もせぬと仰せだ」
そこまで世が動くとお考えなのか? 一刻の栄華が続かぬのは、今までも数多の者が辿った道になるというのに。時期尚早であろう。そう思うのが当然といえば当然のはずだ。
あえて従えた我らを他家に出す。先例にもないことだ。我らには若殿の本心が如何なるものか察することすら出来ぬのか。
「少し刻をいただきとうございます」
「ああ、わかっておる。このままがよいと申すのならば、それも認める。ただ、そなたらにも悪い話ではないと思うておるのもわかってほしい。北伊勢の織田領は一気に変わるぞ。そなたらの領地から民が逃げ出し、北伊勢の一揆が再び起きるかもしれぬことだけは考えておけ」
この場での返答は避けることが出来た。されど若殿のおっしゃることはもっともなのだ。民が尾張に逃げだすのはすでにあること。織田の賦役へは家長や長男を中心に出して戻らぬということがないように差配したが、それでも己の村に見切りをつけて逃げ出す者は出ておるのだ。
我らに織田のような手厚い政は出来ぬ。北畠家ではそれを真似るためにも変えようというのだ。それもわかる。
とはいえ主家を変えるというのはそう容易く決められるものではない。一族の者や家臣らと話して決めねばなるまい。
Side:太原雪斎
「困ったものですね」
尼御台様が冬の寒空の下でため息をこぼされた。
御屋形様のことであられよう。勝てぬと知り、仮に戦で勝っても先がないと説いても、斯波と織田に頭を下げるのが嫌だという本音をお持ちなのだ。進んで争う気もないようだが、
ところが、すでに東三河が揺れておる。貧しく弱き者に従う道理などない。当然のことなのだ。
このままでは甲斐を取っても東三河と遠江を失う。
「伊豆諸島のこと、まことなのですね?」
「そのようでございます。戦になれば守れぬ領地と引き換えに莫大な利を得られましょう。信義を重んじる久遠ならば、その価値は島より大きいと考えたのでございましょうな」
さらに今川家を追い詰めることになったのは、北条が久遠に伊豆諸島を譲ったことか。これで北条との商いがより一層盛んになるはず。
ところが今川家としては伊豆諸島を押さえられると、南蛮船のみならず織田の水軍衆ですら攻め寄せてくることになるやもしれぬ。南蛮船を模した久遠船とやらが増えておるからの。
駿河とて安泰とは言えぬ。河東は北条に靡くかもしれぬし、富士浅間大社が斯波と織田に通ずれば今川家は窮地に陥る。織田は、神宮、熱田、津島と神社に配慮しておるからな。
織田による遠江攻め。これも三河での停戦の
北伊勢の様子を聞いた限りでは、三河遠江攻めと信濃攻めの双方で動けよう。そうすると今川家は滅ぶことにもなりかねぬ。
和睦ですら仲介する者がおるか怪しい。六角は北伊勢の一揆で織田寄りの態度を示した。朝廷も公方様も織田からの献金や献上品で潤っておると聞く。誰が今川家の体裁を慮って和睦をまとめるのだ?
「甲斐と信濃は落とせそうなのですか?」
「刻が許せば……」
御屋形様が望みを託しておられる甲斐と信濃であるが、そこも探れば探るほど苦しいのがわかる。甲斐は上国であり先代の頃から強かったことで一目置かれておるが、妙な風土病があるとの噂や冷害で飢饉になったとの話ばかりだ。
そんな甲斐ですら落とすにはまだ刻がいる。無論、策がないこともない。遠江を織田に取られると考えて、切り捨てるのならば……。
「雪斎殿。万が一の時は、龍王丸を当主に家を残します。これは一切の他言無用ですよ」
「はっ」
致し方あるまいな。御屋形様は刻を稼ぎ甲斐と信濃を得れば道は開けると考えておられるが、それは織田も承知のこと。現状で織田が動かぬのは甲斐と信濃を欲しておらぬだけのことだ。
織田との戦は一度戦をしてしまえば、最早拙僧でも止められぬ。今川の家を残すにはそれも考えておかねばならんのであろうな。
尼御台様もお辛い立場だ。
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