天文22年(1553年)

第950話・元日の朝

Side:久遠一馬


 眩しさを感じて目を開けると、雨戸の隙間から朝日が差し込んでいた。新年を迎える時には起きていたが、いつの間にか寝てしまったらしい。


 広間や各部屋をダルマストーブで暖めて布団を敷いてはいるが、ほぼ雑魚寝だ。おかげでウチは布団がたくさんある。


 朝方まで騒いでいたからな。みんなまだ寝ている。起こさないように部屋を出て廊下に行く。部屋を出ると冷たい空気で一気に目が覚める。


 どうしようかなぁ。朝ご飯の支度でもしにいくか? 基本的にウチの食事は妻たちの誰かが作るんだ。奉公人のみんなも手伝ってくれるけどね。ただ年末年始は奉公人も減らしていて、ご飯の支度は自分たちですることにしているんだ。


 たまにはオレが作ろう。正月くらいみんなをゆっくり休ませたい。


「殿、明けましておめでとうございます」


 一番乗りかと思ったが、すでに奉公人のみんなが働いていた。ただ妻たちはいない。エルも授乳があるので睡眠時間が不規則だからね。寝ているんだろう。


「飯は私たちが炊きます」


 朝食の支度に入るが、奉公人のみんなが手伝ってくれる。特にご飯はかまどが幾つもある。人数が多いからね。ここは素直にみんなに手伝ってもらおう。


 かまども大変なんだよねぇ。元の世界ではスイッチひとつでご飯が炊けたのに、この時代では火加減と水加減が大変だ。


 あとはおせち料理があるのでお雑煮か。オレはこれを作ろう。餅は焼いて香ばしい焼き目を付ける。ちなみに餅は丸餅だ。元の世界では江戸時代に武士の習慣として尾張は角餅だったらしいが、この時代では都に倣うからだろう。普通に丸餅だった。


 この時代でもいずれ変わるんだろうか?



 具材は里芋にもち菜があるな。珍しい。もち菜。正月菜ともいう野菜。元の世界の小松菜に近い品種の野菜になる。史実だと明治時代から尾張で作られていた野菜だ。


 見た目は全体に葉がついていて、若干緑色が薄い。葉っぱも薄いが、その分だけ歯ざわりが柔らかい。試験栽培をしているリリーの話では味は小松菜よりも美味しいとのこと。


 ただこれ、収穫して二三日すると黄色く変色してしまうらしい。そのせいか、元の世界ではほとんど作られなくなったんだとか。リリーが品種改良をするか迷っていると言っていたなぁ。


 もち菜と近い小松菜も実はこの時代ではまだ一般には存在しない。史実だと江戸時代に品種改良をされて定着したものだとか。


 尾張では牧場村で去年から小松菜やもち菜を試験栽培していて、特に小松菜は冬場の貴重な青野菜として、今冬は牧場ばかりでなく農業試験村とかでも育てているものだ。暑さにも寒さにも強く、旬が冬場になる。


 もう少しするともやしとか二十日大根と同じく、領民の貴重な栄養源になってくれるだろう。


 というかこの里芋ともち菜、誰かが雑煮用にと用意したものだな。


「冬に菜物が食べられるなんてねぇ」


 包丁でザクザクと切っていると、奉公人のおばあちゃんが感慨深げに声をかけてくれた。


「ええ、近いうちに領民も食べられるようになりますよ」


 雑煮もねぇ。元は京の都で室町時代に誕生したものだ。元の世界の雑煮とは少し違う。この頃の京の都の朝廷だと、お餅の中に牛蒡の煮たのと白味噌餡を挟んだものを入れるらしいし。武家なんかだと縁起物をいろいろ入れて煮たものになる。


 当然ながらこの時代の庶民が雑煮を食べることはまずない。正月に餅を食べること自体が贅沢なことだ。織田領ではすでに真面目に働けば食べられるようになっているけど。


 年配者なんかはね。ウチに仕えてから珍しいものがたくさん食べられると喜んでくれる。


 さて、調理だ。丸餅は食べる前に焼いて入れるとして、雑煮には里芋、もち菜、昆布、干し椎茸、鶏肉を入れる。別に久遠家の伝統というわけではないけどね。


 味付けは久遠家の伝統ということになっている醤油ベースだ。


 大所帯だからこれも大きな鍋でたくさん作る。当然ながら働いている奉公人のみんなにも振舞うんだ。ウチの正月料理を食べられるということで、元日の勤務は人気らしい。


「あら、早いですね」


 味付けしようとしているとエルが起きてきた。オレがすでに雑煮を作っている姿に驚いている。結構レアな表情だ。


「目が覚めてね。ゆっくりしていていいよ」


「はい、ありがとうございます」


 料理、得意でもないが、そこそこなら出来る。三十代の独身男だったからね。元の世界のリアルでは。


 エルは気になるのか鍋を覗いたりしながら奉公人のみんなに声を掛けている。


 なんか尾張に来た頃を思い出すなぁ。エルが毎朝、みんなの食事を用意していたんだ。まだオレたちだけで暮らしていた頃とか特に。途中で人も増えて滝川家が来ると、資清さんの奥さんのお梅さんが奉公人を上手く使ってね。


 細かい準備とかは奉公人が先に起きてやってくれるようになったんだ。


 そう言えばエルも流石にかまどでご飯は炊いたことなかったようで、初めて炊いた時は不安げにしながら炊いていたんだよね。


 火加減が難しいって、最初の数回は悩んでいた。それでも失敗らしい失敗はしなかったけど。


「さて、オレはロボたちの散歩に行くかな。ここはお願いね」


 エルが大武丸と希美のところに戻る頃になると、雑煮のほうも完成した。あとはみんなが起きるのを待つだけだ。


 一足先に起きているだろう。ロボ一家の散歩に行こう。


 外は更に寒いのでエルの手編みのマフラーと手袋をしていく。これもすっかり人気になったんだよね。もっとも毛糸が相変わらず貴重なんでウチで贈答品として贈る以外は、普及はしていないけど。


 手ぬぐいとかを首に巻く人は結構見る。毛糸のマフラーをしている人は身分のある人かウチの関係者くらいだ。


 マフラーを編める人は増えた。お清ちゃんは完璧だし、資清さんの奥さんとか年配者は編めるみたい。お清ちゃんがエルの許可の下でみんなに教えたんだそうだ。毛糸のマフラー欲しがる人が多くてエルが大変そうだったからね。


 毛糸の手袋はまだ編める人が多くないとは言っていたけど。信長さんは元より、お市ちゃんとか岩竜丸君とかマフラーと手袋しているからね。注目度は高い。


「クーン」


 散歩だと尻尾が元気に揺れるロボ一家と庭の中から散歩を始める。


 ひとりの正月がふと懐かしくなるほど、時が過ぎたな。正月番組を流し見しながら普段と変わらぬ食事をとり、ギャラクシー・オブ・プラネットをする。


 あの日々はもう戻らない日々だ。戻りたいとも思わないけど。


 この世界は既に元の世界とは大きく変化した世界だ。久遠家も大きくなり、オレを信じてくれる人も本当に増えた。


 たとえ帰る方法が見つかったとしても戻る気はない。


 オレたちは多くの人に支えられているし、大武丸と希美はこの世界で生まれたこの世界の住人なんだからね。




◆◆◆


 餅菜。


 天文年間に久遠家により栽培されたのが発祥である野菜である。類似する冬菜小松菜と同様に久遠家が試験栽培していた野菜であるが、味は小松菜より上で当時は正月の青菜野菜として貴重だったものになる。


 のちに植物の品種改良の生みの親である、いくの方こと久遠プリシアにより品種改良された餅菜は、現代では正月の雑煮に欠かせない逸品となっている。


 冬菜小松菜


 天文年間に久遠家により栽培されたのが発祥の野菜であるが、こちらは保存が当時は餅菜より優れていたことから一足先に普及していたようで、栽培が簡単で夏の暑さや冬の寒さにも耐えることから一気に広まった。


 栽培は一年を通して行われたが、特に冬場の菜物として有名になったことで、いつからか冬菜と呼ばれている。


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