第943話・我らの戦はこれからだ

Side:太原雪斎


「ふむ……」


 武田との戦はやはり思う通りにいく。信濃では武田晴信が出てきたこともあって一進一退であったが、言い換えれば武田は守ることで精一杯だったということ。こちらが担いだ信濃守護の小笠原長時が戦下手であることは知っておったことだ。今後は御輿にしてしまえばよい。


 同時に攻めた湯之奥も晴信の弟の信繁が出てきて奮戦しておったが、武田がいつまで抵抗出来るか見物というもの。


「和尚! 少々厄介な知らせが……」


 今年こそなんとか明るい兆しで終えられると思うておったところに入った知らせに、思わず顔を歪めてしまった。


「なんじゃと。伊豆の島を久遠にくれてやったというのか!」


「はっ、そのようでございます」


 すぐに御屋形様に知らせにゆくが、久遠という名を告げると露骨に不機嫌な顔をされた。さらに北条が治めておった伊豆諸島を久遠に譲ったと聞くと信じられんと驚かれる。


 仔細はわからぬ。山が噴火して民を久遠が助けた礼だと噂になっておるが、北条がそのような理由だけで離島とはいえ譲るなどあり得ん。久遠の本領はこの海の向こうだと聞くことと関わりがあるのであろうか?


「あそこを押さえられれば、海から攻められるのではないのか?」


 伊豆大島あたりは日ノ本にも近い。そこが久遠の島になると本腰を入れて海から攻めてくることも考えねばなるまい。御屋形様もそれを懸念されておる。


 北条は我が今川を本気で潰すまで追い詰める気か? 血縁もあり織田などより深い誼があったのだぞ。


「北伊勢で一揆が起きたというのに平定して領地を広げてしまった。すべて織田の謀ではないのか? 三河に人を入れておると聞くではないか」


 さらに御屋形様の御機嫌を損ねる知らせが、先刻西から入った。北伊勢で一揆が起きて織田が桑名郡と員弁郡の大部分を平定してしまったとの知らせだ。なんでも管領の細川晴元の謀だともっぱらの噂だが、一番得をしたのは織田ではないのかと疑念が消えぬ。


 こちらも他人事ではない。織田は北伊勢の民をわざわざ三河に入れて、野分で荒れた地の復興を始めた。


 これが今川家と東三河への策であることに相違あるまい。事実、東三河との境にいる幡豆小笠原はもともと吉良に従っておった者らだ。吉良が織田に従ったのに、己らが今川家に従うことを良しとしておらぬ。


 他にも形原松平や深溝松平など松平分家は表向きは大人しいが、宗家との誼を深めておるところだ。今川は三河を守る気がない。そう思われても仕方のないこと。


 されど……。


「豊川の西はむしろ国人らが織田に近づいておるのでしょう。仕方なきことでございます。武衛殿の権威と内匠頭殿の武威、それと久遠殿の商いの力。どれをとっても今川では少々見劣りいたします」


 御屋形様は未だ信秀に頭を下げることを望んでおられぬ。仕方なきこととわかっておっても、お心の中では納得がいかぬのであろう。戦をして負ければまた違うのであろうが。


 戦をせずに他国を攻める。まるで坊主のようなやり方だ。そう考えると仏の弾正忠という異名はしっくりくる。


「雪斎、まことにこのままでよいのか?」


「今ならば豊川の東は守れまする。あとはそこが落ちるのが早いか、それとも我らが武田を降すのが早いのか」


 豊川東の吉田城は直轄地。備えを増やしておく必要があるが、織田が兵を挙げぬうちは守れよう。


 むしろ懸念は我らが武田を降すのに如何程の時が掛かるのか。甲斐と信濃を平定した頃には織田は更に大きくなっておろう。


 最悪、御屋形様は隠居なされたほうがいいのかもしれぬ。酷なようだが勝てぬ戦を望むのならば、家督を龍王丸様にお譲りになり今川家を残すことも一考の余地があるはず。


 大げさに言えば織田にとって今川は、北伊勢の国人どもと大差ないのかもしれぬ。かつて会った信秀の顔を思い出すとそう思えてならぬ。




Side:武田晴信


「流石は御屋形様でございますな! 今川相手に一歩も退かぬとは。お見事でございました」


 甲斐に戻ると、重臣や国人らがわしの顔色をうかがいに次から次へとやってくる。口々に信濃での戦を褒めたたえるが、他に言いようがないのであろうな。失った兵糧は多いものの得たものはない。


 甲斐では今年も米が不作だった。土地を捨てる者や子を売る者がおったと聞き及ぶ。さらにこの冬の寒さだ。凍えて亡くなる者も多かろう。


「兄上、お呼びだとか」


 重臣や側近をすべて下がらせて、湯之奥の守りを任せておった弟の典厩を呼ぶ。


「よく守り通したな」


「はっ」


 少し疲れた顔をしておる典厩を労い、本題に入る。今のままでは今川の策のままに武田は敗れてしまうやもしれん。大軍を率いて決戦でもしてくれればまだやりようもあるが、あの太原雪斎がそのような愚を犯すとは思えぬ。


「兄上、某が思うのでございますが、今川も追い詰められておるのではありませぬか?」


 甲斐武田家存亡の機と考えるわしに、典厩は思いもよらぬことを口にした。


「織田か?」


「はっ、斯波による遠江奪還が近いのではと思えまする。果たして斯波は駿河に今川を残しましょうか?」


 尾張からの文は相も変わらずだ。古参の家臣はわしの顔色を窺ってか織田が堕落しておると軽んじる文を寄越すが、真田からの文は、もはや力の差が大き過ぎるとわかる内容だ。


 それと西三河と東三河を織田と今川で勝手に分けたことで、東三河の国人らが不満を抱えておると三ツ者が探って参った。最早三河の者で今川が織田に勝てると思う者はおらぬのやもしれぬ。


 つい先日には北伊勢で一揆が起きて、織田が桑名郡と員弁郡の大部分を平定したと知らせが届いた。このまま織田と北畠と六角が争うのかと思うたが、よくよく聞けば織田に出陣を求めたのは六角であるという。


 北畠はそれ以上に織田に近い。戦はないだろうというのが結論だ。


 西がそこまで落ち着いておれば織田が向かうは遠江か越前か。斯波の失った地であろう。飾りではない守護だ。他で手が回らぬならば放置してもよかろうが、手が空けば取り返さねばならぬ地になる。


 ところが越前の朝倉延景が自ら尾張に出向いたことで風向きが変わった。招いたのは斯波であろうが、まことに出向くとは若いというがなかなか肝の据わった男。


 因縁が解けたわけではあるまいが、遠江と越前を比べると北条と誼を結ぶ織田とすると遠江を攻めるほうが得であろう。さらにあちらなら自慢の南蛮船が使える。


「仮に今川に勝っても次は織田か北条ということか」


 斯波か織田と同盟をと考えたこともあるが、体よく躱された。今や東国一の卑怯者というわしでは信じられぬのであろう。


「兄上、仮にでございます。もし甲斐武田が斯波か織田に臣従をすれば如何なりましょう?」


「わからぬが……、困るのは今川であろうな」


 万を超える兵をいつでも動かせる相手と戦など出来ぬ。今川も我が武田もそれは同じこと。今川がもっとも嫌がるのは典厩の言う通り、武田が織田に臣従することか。


 懸念は公方様であるが、六角と織田の動きを見ておると、むしろ公方様も織田を頼りにされておると見える。わざわざ六角義賢を名代として尾張に送ったのがその証。


 今川に敗れ甲斐を明け渡すくらいならば……。


 西保三郎の文を見ても尾張はよき政をしておる。義元と信秀ならばまだ信秀に頭を下げたほうがいい。


「典厩、そのこと決して他言するなよ」


「はっ、心得ております」


 典厩もわかっておるようだが、わしが他家に臣従することを考えておると知られると、今川に寝返る者や離反する者が後を絶たぬであろう。寝首を掻く者すら出かねん。


 そもそもわしが東国一の卑怯者と言われる由縁は、家臣らがそう進言したことを認め動いたからだ。もっとも進言した者の多くは既に戦で亡くなったがな。


 今川との戦をしながら他の策も考えねばならん。もうそんな頃合いだ。


 卑怯者と罵りつつ同盟相手を攻める今川にだけは負けられぬ。





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