第940話・母親

Side:土田御前


 南蛮行灯の灯りを見つつ、外から聞こえる民の声に耳を澄ませます。


 良かった。その一言に尽きます。


「そなたがここまでこだわるとはな。わしも思わなんだわ」


 殿は酒を飲みつつ、面白げに私を見ております。大武丸と希美の初宮参りをきちんとするべきだと動いたのは他ならぬ私なのです。それが面白いと思うているのでしょう。


 一馬殿は質素でいいと考えていたようで、殿も一馬殿がそう望むのならば好きにさせよと仰せでした。事実、殿と一馬殿ならば初宮参りが如何なる形でも大きな差し障りはないでしょう。


 殿と一馬殿ならば……。


「後顧の憂いはなくしておくべきことでございます」


 殿と一馬殿は実の親子と同様に、いえ、それ以上に信じおうております。家督のことなど互いに関わらずという誓いが気楽なのかもしれません。ですがそれ故に殿は一馬殿に少し甘いところがあります。


 久遠家の伝統はひとつ間違えると敵を作るものが多いのです。味方に付けるべきは味方に付けて、示すべき態度はきちんと示すべきなのです。


 ちょうど一馬殿は忙しく、この件を八郎とシンディ殿に任せていました。私は八郎とよく話して、自らエル殿とシンディ殿の下を訪ね、久遠家の伝統と一馬殿の本心を聞いて今日のために根回しをしたのです。


「あれは己を低く見せたがるからな。悪い癖ではある」


 殿もわかっていたのでしょう。私の進言を認めました。どちらかといえば大武丸と希美のため、久遠家のためなのです。久遠家は寺社の領分を侵しすぎていますので。


 それと殿もおっしゃっておられる通り、一馬殿は己の代わりなどいくらでもいると考えている節がある。確かに学校に通い学べば、世を知る者が増えることは確かでしょう。されど一馬殿の代わりなど、然う然ういるものではありません。


「私は嫌われてもよいのでございます。ひとりくらいは小うるさい者がいたほうが一馬殿のためにはいいはず……」


「一馬のことだ。その程度のことわかっておろう」


 少しばかり久遠家は大きくなるのが早い。それ故に私は案じてしまいます。まるで一夜の夢のように消えてしまっては大武丸と希美は如何なるのですか。


「殿や一馬殿は、出来ぬ者らのことをわかっていないと私は思っております。まして狭い土地で生き、それがすべての者の想いなど尚更」


 若い頃から武勇に恵まれ天下に名を轟かせている殿や、日ノ本の外で生まれ外を見ている一馬殿にはわからぬこと。私にはそれがわかるつもりです。


 それ故に、私は己の出来ることをするつもりです。


「ふふふ、そなたも一馬の母らしくなったな」


「それが私の務めでございます」


 この乱世を生きるにはあまりに優しく甘い者たち。なればこそ、時には私が乱世の厳しさとなり一馬殿らの前に立たねばなりません。


 女も己で嫁ぐ先を選べる世にしたい。一馬殿の見ているその先を無に帰すことのなきように。


 きっと一馬殿の亡き母上殿も私の考えを理解してくれるでしょう。




Side:久遠一馬


 熱田の領民は、神事が終わり熱田の屋敷に戻るまで待っていてくれた人が大勢いた。ただの野次馬ではない。この寒い冬の夜に暖も取らずご飯も食べずに待っていてくれたんだ。


 シンディが気を利かせて待っていた人たちに握り飯を配っていたので、屋敷に戻ったオレも一緒に手渡しするのを手伝った。


 みんな喜んでくれていたなぁ。子供が産まれたこと、無事に三十日を迎えたことを。『熱田様が守ってくださった』『これで明日からも守ってくださる』、そんな声も多かった。


「へぇ。土田御前様がね」


 ロボ一家とお市ちゃんが休むと、オレはシンディの部屋でエルたち、大武丸、希美と今夜は休むことにした。


 ちょっと気になったんで今日のことの事情を聞いてみたが、土田御前が動いたのか。あの人は信秀さんとは別の視点で生きているんだよね。


 エルたちとも話す機会も多いせいか、独自にウチの考え方を学び、そこからさらに考えて動いている。


「大武丸と希美の先行きを一番案じているお方だと思います」


 元の世界のよくある物語に出てくる息子を溺愛する人と違い、気遣いの出来る人だ。ただ、ちょっと頑固なところがある。あと時々わざと信秀さんの意見に反することを言うこともある。


 政治的なバランス感覚は優れているんだと思う。


 オレたちが尾張に来て急速に大きくなっている織田家において、土田御前が奥方たちを集めて茶会や歌会や能鑑賞などをしているのは土田御前なりの考えによるものだ。


 この時代だと女も自分で領地を持っていたりして江戸時代よりは自立しているものの、それでも家中の奥方を集めてイベントをするということはそうあることではない。武士がそれぞれの領地に住むように、奥方たちもそれぞれの家に住んで領地から出ることは滅多にないんだ。


 治安が良くなっていることや、エルたちがよく外に出ることもある。それとウチが花見とかした影響から学んだっぽい。


 まだ城下町に集めているわけじゃないが、集まる機会を作り奥方たちで親交を深める。そこから各家で困っていることや悩んでいることがわかって動くこともある。


「ありがたい人だね。今のウチに正面から意見を言ってくれるのは」


 正直、年齢的に母親というには若いせいか、どう接していいかわからなかった時期もある。


 ただオレやエルを面と向かって叱るのはあの人だけだ。人を叱るというのは難しい。特に今の久遠家の力を考えると。土田御前は信長さんと同じ扱いをすることで、オレや周囲に対して織田と久遠の関係が悪化しないようにと配慮しながら叱る。なかなか出来ることじゃない。


 今回の一件も大武丸と希美のことを心配してくれた結果のようだ。


 オレとエルたちは先を知るアドバンテージと情報収集力、秘匿する桁違いの力がある。それ故に知らない人から見ると脇が甘く見えるんだろう。


 ちょっと悪いことしちゃったな。配慮が足りなかったか。


「もっと子が出来てもよいとせっつかれましたわ。私などは寝所を共にする日が少ないのではと心配されました」


「私も言われた」


 頼りになる人だなと土田御前のことを考えていると、シンディとケティから思いもよらないことを明かされた。


 嫡男が生まれて万々歳というだけじゃないのか。この調子だと尾張にいる他のみんなのこともいろいろと心配してそうだな。


 ほんと、母さんが生きていたらこんな感じなのかね。


 親孝行しないとな。世話になってばかりだ。信秀さんにも土田御前にも。







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