第934話・吉法師君

Side:神戸利盛


「北畠様、お久しゅうございます」


「おお久しいな。息災であったか」


 学校を出て病院とやらに行く。ここでも若殿は声をかけられる。まるで自領のように慕われておる姿に若殿のお人柄がわかる。


 民も愚かではない。威張るばかりの領主にはそれ相応の態度しかとらぬもの。ましてやここは他国だ。若殿に尾張の民が自ら声をかけるのは、それだけ若殿のお人柄がいいということであろう。


「ここが病院だ。織田の民ならば誰でも診てもらえる。これだけで織田は尾張を失うことはあるまい。民が守ろうとするからな」


 病院の建屋を見て若殿は少し遠い眼差しをしておられる。噂は聞いておる。ここで診てもらえれば、労咳の様な死病でも助かるかもしれぬと噂だからな。されど織田の民でなくば多くの銭を取られる。北伊勢の民が不満を持っておった理由のひとつであろう。


「左中将様、数日ぶりでございます」


 中に入ると武士から僧や民に至るまで多くの者が待っておる。そんな者らを見ておると声を掛けてきたのは、また若い娘だ。


「この者は八郎の娘だ。名をお清。看護の方と呼ばれておる。一馬に嫁いで数年。今ではここで患者の差配までしておる者よ」


 誰かと思えば久遠家に嫁いだ八郎殿の娘か。久遠家の女は自ら働くと聞くが、日ノ本で嫁いだお清殿も同じか。


「私などたいしたことはございません。皆様のめいを守り、お助けしておるだけでございますので」


「なんの、そなたの働きはエルやケティにも劣るまい。世の中には命じても出来ぬものが多いのだ」


 それにしても若殿は尾張に来てから、まことに楽しげにしておられるな。霧山御所ではこれほど笑うことはなかったと思う。


「ここでは近隣の者以外にも領内の各地から重い病にかかった者が送られて参ります。医師が診て必要とあらば入院をさせて治療をしております」


 八郎殿が僅かに親の顔を見せた気がした。我らに病院について語るお清殿の姿が嬉しいのであろうな。それに誇らしかろう。今や知らぬ者がおらんとも言われる久遠家に嫁ぎ、見事に御家を支えておるのだ。


「お清殿、各地というと尾張以外からも集まるので?」


「はい。織田の大殿様に従う所領の民は分け隔てなく治療をしております」


 何度目であろう。周囲が騒めいた。本領のみではない。属領も変わらず扱うとは。如何程の銭がかかり、幾許いくばくの人が集まるのだ?


 聞けば各地で病人を診ておるのは、薬師の方の教えを受けた医師と寺社の僧や神人らしい。ここ病院で薬師の方の教えを受けて認められた者だけが尾張では薬師や医師を名乗れるのだとか。


 驚きはそこではない。各地の寺社をまるで家臣のように従えておることだ。守護使不入やらなにやらと武士には決して従わぬ寺社が、ここでは従って働いておるのだ。


 如何にすればそのようなことが出来るのだ?


 わからぬ。わからぬが、少なくとも領内は盤石だとみて間違いあるまい。先日には薬師の方が大湊と霧山御所で民を診察したと聞き及ぶ。若殿はこのような相手と渡り合っておられるのだ。


 北伊勢の国人衆が領地を失った訳が分かるわ。明日は我が身かもしれんな。若殿はそうならぬように苦心されておるとみるべきか。




Side:久遠一馬


「あ~、かじゅ!」


 具教さんたちの歓迎の宴のために那古野城を訪れたので、吉法師君にも会いに来た。


 最近言葉の単語を話すようになったので、オレのことも覚えてくれたらしい。おもちゃとか絵本とか持って会いに来ることは時々していたからね。


 すでに歩けるようになっている。まだ危なっかしいところはあるが、オレのもとまで歩いてきてくれた。


「歩くの上手になりましたね」


「あい!」


 上手くできたら褒めてあげる。すると吉法師君は喜んでくれた。守役の政秀さんがそんな姿に目を細めて嬉しそうに見ている。


 織田家の筆頭家老である政秀さんだが、現在の仕事量は信秀さんの下の弟の信康さんと信長さんのほうが多い。信長さんが信秀さんの下で働くようになって以降、守役の役目もあって仕事量を減らしているんだ。


 代わりに政秀さんの嫡男である平手久秀さんが信長さんの下で働いている。まあこの辺りは組織が以前よりは整ってきたので出来ることだが。


 政秀さんもそろそろ隠居をと考えてもいい歳なんだが、申し訳ないが隠居はまだ無理だろう。織田一族以外で政秀さんほど家中をまとめられる人がいない。


 まあ信長さんも文官として成長しているので負担は減ったんだけどね。


「エルとメルティは台所ですよ。今日はお客様が来るので」


 ただ吉法師君。オレを見てひとりだったことでキョロキョロと周りを見回した。多分エルかメルティを探しているんだろう。どちらかが一緒に来ることが多いからね。


 今日のお供は千代女さんだ。彼女は本当に賢い。すでにエルやメルティの代わりにオレの補佐なら卒なくこなすほど。エルの産休でせめて代わりを務めようと自覚も生まれたらしく、さらに成長した。


 今日は久しぶりにエルが料理を作るというので一緒に来ていて支度をしている。北畠家との関係は、具教さんが連れてきた人たちが思う以上に重要になるからね。


「かじゅかじゅ!」


 吉法師君を抱きあげてやっていたが、なにを思ったのか離れていき何処かに行ってしまう。


「ああ、絵を描いたんですね。上手に描けていますね」


「はい、大変お上手でございますわ」


 何処に行ったのかと思ったら紙に鉛筆で描いた絵を持ってきて見せてくれた。なにを描いたかわからないが、吉法師君は自信があるんだろう。オレと千代女さんに見せてくる。


 絵はメルティが勧めたことだ。ほかにもジュリアが勧めたことで小さな太鼓を与えて叩いているみたい。前にジュリアがリュートを弾いて聞かせたら喜んだんだよね。


「大武丸と希美の様子は如何じゃ?」


「ええ、元気ですよ。そろそろ初宮参りに行くつもりです」


「それは良かった。これで織田も久遠も安泰じゃの」


 オレと千代女さんと吉法師君の姿を見ていた政秀さんと少し世間話をする。オレたちが尾張に来て五年ほどになるが、政秀さんにとってはつい先日のことのようなんだろう。そんな雰囲気だ。


 ウチの後見人が今でも政秀さんであることに変わりはない。今の久遠家成功の功労者のひとりと言っても過言ではないだろう。


 史実において政秀さんの最期は信長さんを諫言したとも、政秀さんの息子と馬の扱いで揉めた結果とも伝わるが、この世界においてはそんな要素はない。


 信秀さんは健在だし、信長さんは立派に働いている。信長さんに関してはウチが多分に影響を与えた結果だろう。エルもかなり信長さんを教え導いていた。


 政秀さんの息子たちも清洲城で文官として働いているし、信長さんとの遺恨になりそうな話はない。


 ケティの検診でも政秀さんは命に別条がない程度の多少の持病はあったらしいが、ナノマシンでこっそり治療したらしいし。


 史実で亡くなったのは来年だが、現段階ではそれを越えて生きてくれるだろう。


「わしを年寄り扱いするのは気に入らぬが、若い者らが我先にと働く姿は見ておって気持ちがいいの。一馬殿が尾張に来てくれて本当に良かった」


「平手様が動かれては功を上げられませんからね。私もあまり動かないようにはしていますよ」


 初めて会った頃と比べると少し穏やかになったと思う。年寄り扱いはやはり嫌らしいが、それでも若い人たちに活躍してほしいと願う。なかなか出来ることじゃないと思う。


 長生きしてほしい。まだまだ世の中は変わるのだから。苦しい時代をこれから生きるみんなに伝えてほしい。


 そうだ。太田さんに政秀さんの話を記録として残してもらうか。信秀さんの時代のことって元の世界ではあまり記録が残ってないからな。




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