第916話・甲賀の夜明け
Side:三雲定持
「あの愚か者どもがぁぁ!!」
苦労してやっと成し得た策があっさりと崩れさった。織田と六角を争わせる最後の一手として送り出した倅の新左衛門尉の行方がわからなくなった。密かに送り出した見張りの素破ともども消えたという。
逃げたのだ。あの臆病者めが。あと一歩。あと一歩で滝川と望月を堂々と始末出来るはずだったものを。
思えば新左衛門尉は愚かな倅だった。無知な女の分際で要らぬ口を出す女をいつまでも母と呼び、こそこそと会っておったこと。わしが知らぬとでも思うてか?
「追っ手を放て。なんとしても探し出して裏切り者を消して首を持ち帰れ! それと共に戻らぬ者の親兄弟を捕らえてこい! 見せしめに磔とする」
「殿、百名はおりましたぞ。その者らの親兄弟をすべて磔とするとさすがに……」
「けじめも付けぬ故にいつまでも素破と呼ばれるのだ! さっさとやれ!!」
愚か者はこれでよい。考えねばならんのは今後のことだ。北伊勢は如何なる? 六角と織田と北畠の三つ巴か?
御屋形様はわかっておられぬ。織田は今すぐにでも叩かねばならんのだ。明との商いはそれだけ利になる。織田か久遠か知らぬが、必ず奴らは己が欲のために牙を剥く。その時に狙われるは六角家だというのに。
敵が身内にいることがわかっただけで今回は良しとするか。蒲生、後藤、進藤。奴らが獅子身中の虫だ。
「とっ……殿!!」
先のことを考えておると、家臣が慌てた様子でやってきた。愚か者が。行儀作法も知らぬのか。
「何事だ」
「おっ、御屋形様が兵を率いて城に迫っております!!」
「なにを戯けたことを」
「まことでございます! すでに領内に入られた模様!」
この男はなにを言っておるかわかっておるのか? 北伊勢で一揆を討伐しておる時に、何故御屋形様が甲賀に兵を向けるというのだ。
「さらに! 周辺の国人ではすでに兵を集めて領境を封鎖し、御屋形様に馳せ参じておりまする!」
まさか……、謀られたのか?
「何故、今までわからなかった!!」
「使える者は北伊勢に出ております。また隠居した者や殿に疎まれた者らが密かに隠しておったようで……」
あまりの愚かな知らせに、震えながら語る家臣を思わず斬り殺したくなるが、ぐっとこらえて話を聞く。
「すぐに兵を集めよ!」
まことにわしを攻める気か? 長年尽くして六角の家を第一に考えておるわしを。だがそこまで迫っておいて前触れがないのはあり得ぬ。
誰だ! 誰が謀ったのだ!!
間に合わぬ。兵を集めるのも籠城することすらも。
逃げるしかあるまい。家臣に籠城の支度をさせて御屋形様を欺き、僅かな信のおける者だけで逃げるしかあるまい。わしはこのようなところで死ぬわけにはいかぬ!
死ぬわけにはいかぬのだ!!!
Side:六角義賢
「御屋形様。甲賀衆は三雲以外ほぼ下知に従っております」
どうやら己が攻められるとは思いもしてなかったようだな。己に如何程の価値があると思うておるのであろうか。
「なるべく殺すな。生かしたまま捕らえて裁くのだ」
きっかけは織田、いや久遠であった。野分による被害で例年以上に飢える者が出かねんとしておる甲賀に手を差し伸べた。
尾張に働きに行くのはよくあることなれど、先に報酬を与えて、その報酬にて雑穀を買えるように大湊の商人に手配もしておった。甲賀では武士ばかりか民から坊主に至るまで涙を流して感謝しておると聞いて背筋が寒くなった。
三雲の動きをわしが認めておると噂が流れておったことも、此度の三雲討伐を決めたきっかけだ。このままでは北伊勢から甲賀、伊賀に至るまで織田に靡いてもおかしゅうない。
「しかし三雲の嫡男が織田に逃げたとは……。何故、わしを信じてくれなんだのか」
最後の後押しをしたのは、斯波武衛殿からの文だ。三雲定持の嫡男である賢持が、三雲定持と細川晴元の密約の書状などを持ち出して織田に逃げたということだ。
六角と細川で織田と三好を叩き、上様を擁して都を押さえる。そんな内容だと書かれてあった。
なにより驚きだったのは三雲賢持がわしを疑い、六角家中ですら誰が味方かわからぬほど追い詰められておったことだ。
三雲定持の所業は許されることではない。されど、それを憂いた嫡男が他家に逃げるまで追い詰められたことは、決して三雲だけの責任ではない。
武衛殿からの文は逃げた者らの一族の助命を頼むということと、細川と三雲の密約の書状などを代わりに譲るというものであった。
久遠殿もそうだが、尾張者は情けで人を動かし、世を動かす。断れんな。責めは必要であろうが、追放でよかろう。断ればわしが甲賀衆の信を失う。三雲を陰で動かしておったなどと疑われたくはないわ。
「御屋形様、責めは三雲ひとりでよろしいのではありませぬか?」
「であるな」
幸いなことに重臣たちもあまり苛烈な処罰を望んでおらん。甲賀が織田に心寄せておること、知らぬ者はおるまいからな。
さて、あとは三雲定持の身柄をなんとか押さえねばなるまい。
Side:とある甲賀者
「まことに三雲はこちらに来るのか? 敵地ではないか」
「来るさ。若狭や都に逃げると皆が思うからこそ、こっちに来るはずだ。なあ銀次」
「ええ、あっしもそう思いますぜ」
この男にとって甲賀は今も庭のようなものか。滝川慶次郎秀益。今弁慶と称される甲賀生まれの男。忠義の八郎と共に久遠家家臣として名の知れた男なのだが。なにを思ったのか祖先の菩提寺に姿を現し、六角の三雲討伐を見届けたいと言いだした。
わしは滝川ゆかりの者で、滝川様の元領地であったところで細々と食いつないでいたが、慶次郎とは昔馴染みで案内を頼まれたんだ。
共にいるのは銀次という男と久遠家に仕える甲賀生まれの者たち。こやつらはいったい誰の命で動いておるのだ?
我らが待つのは甲賀から伊勢に抜ける道のひとつ。もっとも道と言っても獣道程度のところで地元の者でもあまり使わぬところだが。
「ほうら、来やしたぜ」
「六角は泳がせておるのか、取り逃がしたのか?」
そろそろ冬になろうという頃、冷たい風が吹いている。尾張から来た者らは暖かそうな着物を着ておるのが羨ましい。
まさか来ないだろう。そう思っておったが、姿を見せたのは旅の僧らであった。
「あの者らが三雲定持なので?」
「ああ、間違いないですぜ。歩き方がおかしい。いかにも逃げていますと言わんばかりだ」
わしの他にも慶次郎に雇われた者が三十ほどおるが、銀次という男が半分を引き連れて後ろに回った。
「さあ、やるぞ。オレは名乗り出られん。手柄はお前たちのものだ。褒美が出るぞ」
名乗り出られんだと? まさか勝手に来たのか? この男がそんな下劣な嘘をつくはずがない。
「慶次郎……、お前」
「三雲には逃げられては困るのだ。織田にとっても六角にとってもな」
いつの間にかいっぱしの武士の顔になっておった。共に野山を駆け回っておった男がだ。
「拙僧らになにか用かな?」
慶次郎が怪しげな僧らの前に出ると、僧のひとりが声をかけてくるが、いささか声が震えておるな。
「三雲定持殿、貴殿に生きて甲賀から出られては困るのだ」
刀も抜かずに立ちはだかる慶次郎に、僧らが明らかに敵だと言わんばかりの動きをして持っておる杖や隠してあった刀を抜く。
「名を聞いておこう」
「
いい加減な名を名乗りおって。思わず顔をみてしまうが、真剣な顔だ。この男、どこまで本気なのだ?
「おのれ。虫けら風情が……」
素直に通す気はないと理解すると、編み笠の下で先の男が怒りに震えておるのが見える。
「やれ! ひとり残らず殺せ!!」
その言葉に正体を現したと、囲む甲賀者も目の色が変わる。すでに六角の御屋形様が出張っておられるのだ。こやつの首は手柄首となる。
「はっはっはっ、遅いわ!」
だが、我らのやることなどなかった。
滅茶苦茶だな。慶次郎のやつ、また強くなっておる。持っておった鉄の棒のようなもので、僧に扮した三雲の者らをほとんどひとりで殴り倒しておるわ。
「おのれは……物の怪か……?」
「穀蔵院、殺すなよ。御屋形様はこやつの身柄を望まれておる」
「わかっているさ。なあに生きていればいいのだ。生きていればな」
相手も手練れだったのだろう。しかし三雲定持と思わしき男は慶次郎の鉄の棒で殴られた腕を押さえつつ、尻もちをついて激痛に耐えるように慶次郎を見ておる。
さらに銀次という男と共に背後に回った者らは、そんな慶次郎を見て逃げ出した者らを捕らえておる。こやつら、僅かな数でこれほど容易く生け捕りにしてしまうとは。
これが久遠に仕えるということなのか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます