第909話・近江の動き

Side:三雲家のとある家臣


「この大たわけが! 流言を流してすぐに一揆勢を追い立てろ!」


 知らせに参った者に殿は握っていた扇子を投げつけ怒りを露わとされた。一揆勢が近江に向かってきておるという知らせがお気に召さなかったらしい。


 そもそも一揆を己が思うままに動かそうとなさること自体、無理があったとしか思えぬ。


「されど、仏の弾正忠は無法者を許さぬ。仏罰を下されるとたいそうな噂でございまして……」


「勝手に口を開くな! この無礼者めが!!」


 無理難題を言うと内心呆れておると、今度は殿の側近が訳を話した者を怒鳴った。


 殿の周りはあのような者ばかりだ。数年前までは諫言する者もおったが、殿があまりに露骨な態度で邪魔だと言いたげに接すると皆、隠居してしまった。


 中には三雲家から離れて近隣の他家と誼を深める者すらおる。古くから三雲家に仕えておる者はそうもいかぬが、そうでなければ三雲家に拘る理由がない。殿は兵を挙げて不忠者を討つとおっしゃられた時もあるが、近隣の者がそれならば戦だと返信が来るとさすがに自重された。


 乱心されておるのではないのか? そんな噂が甲賀では囁かれておる。滝川憎し、望月憎しで乱心した。そう噂なのだ。


 確かに望月はともかく、滝川如きがあれほど立身出世するなどあり得ぬとわしも思う。されど他家のやり方に口を挟むわけにもいくまい。久遠一馬という男が滝川を気に入ったとしても悪いわけではないのだ。


 それにだ。滝川は甲賀を離れたというのに、甲賀のことを案じておるという。それに引き換え殿は、甲賀を我が物の如く思うておる割に案じるどころか配慮すら見せる気配がない。


 そんな殿にも殿を重用する六角家からも甲賀衆の心は離れておる。


 甲賀の惣による合議はすでに殿の力の及ぶところにはない。滝川と望月は特に口を出さぬらしいが、暗黙の了解として織田が敵対しておるところには手を貸さぬということになっておる。


 そもそも甲賀衆のほとんどが尾張に雇われておるのだ。当然のことであろう。


 先日には織田と久遠に雇われておった者らから、先に褒美を頂いたと知らせが入ったようだ。しかもだ。その褒美で雑穀などを大湊の商人が用立てて、甲賀まで送ってくれるように手配までされておったらしい。


 聞いたところによると、これで滝川と望月に近い者らは春までなんとか食っていけるとのこと。恐ろしいとさえ思う配慮だ。


 他国に恵んでやるなど聞いたことがない。愚かと笑うか、恐ろしいと怯えるか。殿は愚かだと笑うておったがな。


「よいか! なんとしても一揆勢を尾張と美濃に追い立てろ! 手段は問わぬ!!」


「……はっ」


 『素破はまともに役目も果たせぬのう』と笑う近習の言葉に、殿はニヤリとされて新たな命を下された。


 知らせに参った者は庭先にしか入れておらぬ。先ほど降った雨で着物が泥だらけになっておるというのに。それを汚らわしいと顔をしかめる者ばかり。


 三雲家は真にこれでよいのか?




Side:六角義賢


「民とは素直なものよの」


 届いた知らせに怒りもなかったのは、尾張を思い出したからか。わしが一介の民や国人であれば、同じく尾張を敵に回すようなことはせぬであろうな。


「願証寺が織田に降ったのも仏の弾正忠ならばこそだと評判でございます。逆らえば仏罰を受けると騒いでおりまする」


 織田と北畠が動いたのはいい。されど一揆勢が富める尾張ではなく近江に向かっておるとは。いや、北伊勢の民では知らぬ者も多いということか。近江は古くから栄えた土地なのだ。なにも知らずに西へ来ることこそ自然な流れかもしれぬ。


 細川晴元と三雲定持如きの謀としては相応しき末路ということであろう。




「どうか! どうか左京大夫様のお力にてお助けを!」


 ああ、また来たか。一揆を起こされて城も捨てて逃げ出した愚か者が。斯波と織田に頼ったものの、邪魔だと言わんばかりに扱われたと激怒してわざわざ観音寺城まで来るとは。


「己の所領も治められず、一揆を起こされた者を信じろというのは無理があるな。武衛殿の言い分は尤もだ」


「なっ……、我が家は代々奉公衆でございますぞ! ならば上様にお目通りを!」


「上様は病だ。その方如きが会えるはずがなかろう。北伊勢に関しては特にご下命はないわ」


 奉公衆か。上様が苦境におった時に僅かな助けすら寄越さず、己だけはその名で助けを請うのか? 上様が知ればお怒りになるか呆れて捨て置かれるか。いずれにせよ北伊勢は好きに致せと書状が来ているのだ。


「それはあまりにご無体な……、我らに死ねと仰せでございますか!?」


「武士として己の所領を守れぬ以上の不徳があるか? その方のような者のおかげで、わしは武衛殿や北畠卿に頭を下げて一揆の鎮圧を頼んだのだぞ。ああ、北伊勢の一揆は若狭の管領殿の差配のようだ。所領をというのならば若狭に参って管領殿に頼むが良かろう。当家はもう管領殿とは縁が切れたのでな。知らぬ」


 最初こそ話を親身になって聞いておったが、取り返した暁には臣従をなどと己の都合が良いことしか言わぬ北伊勢の者らに愛想が尽きた。


 幾人か苦言を申す者もおったが、さればとその者らに対し、加増する代わりに北伊勢に所領を移すゆえに治めるかと問うたらなにも言わなくなった。


 己で働かぬ者に限ってそのようなことを口にする。困ったものだ。


 梅戸の体裁を守る程度の者らは助ける。されどあとは所領の安堵などせぬ。八風街道を押さえておけばよい。


 このままでは織田が要らぬと放逐した者らが集まってしまうではないか。忠義もなく武功もない者らなど要らぬ。誠に従順な者らは養子を条件に助けてもよいがな。とはいえ理由に奉公衆などをと今更口にする者は要らぬ。




Side:久遠一馬


「変わり身の早さは見習いたいね」


 北伊勢の水軍の怪しい動きが止まった。北畠家の支援として久遠船とキャラベル船を送ったからだろう。五隻の久遠船と一隻のキャラベル船。まあ久遠船だけでもいいんだろうけどね。北畠家への誠意としてウチの船を一隻出した。


 少し調べたら水軍に属する者たちの中にも一揆勢がいたみたいで勝手に動いていたらしいが、北畠と織田が動くと知ると大人しくなった。まあ水軍を束ねる者たちがそんな一揆勢を討ち取ったり許したりと色々しているが、今のところこちらに損害はないので関与していない。


 国人や土豪は一揆の被害が少ないところは基本的に様子見だ。もっとも他所を助ける余裕なんて何処もないけど。かろうじて城を守り半ば籠城している者たちはいる。


「やあ、藤吉郎殿。元気そうだね」


「はっ! 日々励んでおります」


 水軍の始末は後回しでいいが、藤吉郎君が面白い書状を持ってきた。職人衆からの嘆願書だ。正式な書状として持ってくるのは珍しいな。


 中身は楠木家の救援を頼むということ。楠木家、かの有名な楠木正成の一族だ。どういうわけか北伊勢にいる。


「村正のほうからも嘆願がきているんだよね」


 史実では妖刀なんて言われた村正の刀だが、元は桑名の刀鍛冶職人たちのことをいう。実は今、彼らの大半は那古野の職人町にいるんだよね。桑名と絶縁していた頃から増えて、今ではこちらが主流となりつつある。


 良質な鉄が安価で手に入ること、桑名の評判が落ちて桑名の刀として売っても安くなるとかいろいろあったらしい。


 なぜ職人たちから嘆願書が来るかと言えば、楠木家、刀鍛冶をしているんだよね。一族の数人が尾張にいて刀鍛冶として仕事をしている。


 嘆願書があちこちから来る程度には尾張に馴染んでいるみたいだね。


「楠木家は神戸家とも縁があるみたいだから、北畠家でも動くと思うんだよね。とはいえ嘆願書は受け取ったから」


「ありがとうございます!」


 藤吉郎君、職人としても頑張っているらしい。評判がオレにも聞こえてくる。武士になりたいとかあんまりないみたいだね。


 結構なことだ。史実だといろいろとあったからね。案外このまま職人のほうが彼は幸せかもしれない。




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