第901話・三雲定持
Side:三雲定持
「そうか! やったか!!」
「はっ」
ようやく訪れた吉報は伊勢からであった。これで六角家を正しき道に戻せる。わしが戻してみせる。
思えば随分と年月が掛かった。甲賀は貧しい。このようなところで終われぬと伝手を辿り、苦労の末に明と交易をすることが出来た。六角家家中に銭をばら撒き、公方様と側近らにまで銭を献上してようやく家中での地位を確かとしたというのに。
忌々しい久遠と滝川めがすべてを台無しにした。
「褒美をとらそう」
素破は目の前におるこの者のように地べたに這いつくばっておればよいのだ。僅かばかりの文銭を庭に控える素破に投げてやる。
「……ありがとうございまする」
ふふふ、拾うておる、拾うておるわ。それでよいのだ。甲賀衆などわしの駒でしかないのだからな。滝川めも今に己の立場を思い出させてやるわ。
「このまま北勢四十八家を煽れ。諸悪の根源は織田だ。奴らのせいで貧しいのだと流言にて広めろ」
「はっ」
臆病者の管領殿はあまり役に立たなかったが、まあよかろう。公方様にも疎まれ、都にも入れぬ者の文で誰が動くというのだ。そのようなこともわからぬ管領殿だからな。
北伊勢では尾張に民が逃げて困っておるという。わしはそれが織田の謀だと流言を流して、大勢で逃げる民を見つけたらそこの領主に知らせろと命じた。
愚か者どもは見事にわしの思惑通りに踊ったわ。このまま民には更なる一揆を煽り、国人は織田を恨むように仕向ければよい。あとは願証寺を織田にぶつけるとよいのだが、あそこが思いのほかに臆病なのかこちらの思惑に乗らぬ。
蒲生や後藤らが思うた以上に愚かであるせいで骨が折れたわ。佐々木源氏の六角家重臣と言えども愚か者は愚か者ということか。
北伊勢を六角家で確実に押さえて、織田を潰す。久遠の商いはわしが乗っ取ってやるわ。北畠は六角家と血縁があるのだ。織田が滅べば目が覚めよう。
素破如きを家臣にしておる久遠など恐るるに足りぬ。鉄砲と金色砲の欠点は承知しておるのだ。雨がふれば無用の長物となるとな。
病の公方様もおる。今なら織田を潰し三好を叩けば、天下は六角家のものになるのだ。わしはそれを支えて天下を差配するのだ。
その暁には滝川と望月が裏切り者であると天下に喧伝してくれるわ!
Side:三雲家の素破
「汚ねえ銭だな」
殿の下を辞したわしは共に働く者のところに戻ったが、泥で汚れた僅かばかりの悪銭を見せても落胆することもない仲間に殿より頂いた銭を分けた。
「尾張でさえ雑炊も食えねえな。これじゃ」
野分のせいで米ばかりか雑穀も値上がりしておる。甲賀はもとより近江や北伊勢でもそうだ。わしらが知る中で一番安い値で雑穀が買えるのは尾張だ。そんな尾張でさえ一杯の雑炊すら作れない程度の褒美しか頂けなかった。
先祖代々住む村を治める三雲様だからと、今日まで歯を食いしばって命に従ってきたというのに。
「村には腹を空かせた子がいるのに……」
今年は野分の被害が思いの外大きかった。このままだと飢え死にしかねない。甲賀は働ける男衆の多くが働きに出た。
「尾張に行った奴らは先に銭を貰ったらしい」
「そんなことあるか」
「いや、事実だ。このままだと飢えるだろうって、働く前に褒美をもらったんだと。あっちは春まで食いつなげるくらい貰ったらしい」
困ったと考えておると、ひとりの男が近頃ではすっかり甲賀の主流となりつつある敵方のことを口にした。
あちらは駆け付けるだけで飯を食わせてもらえると評判だからな。とはいえ先に褒美だけを渡しておるとは。
「このまま尾張に行くか?」
「殺されるぞ。三雲家と滝川家はすでに敵も同然だ」
ひとりの男がこのまま飢え死にするくらいなら……、いっそ寝返ってしまおうかと口にするも、また別の者は止めた。
三雲様など尾張に一族で逃げた者が出た村の長老を見せしめにと磔にしたくらいだ。滝川に内通したなどと疑われれば一族郎党殺されてしまう。
「なんとか銭か食べ物を得ねばな。飢え死にだ。伊勢で奪えればよいのだが」
本音では滝川でも誰でもよいのだ。飢えねばな。とはいえ我らの仲間の中に三雲様に密告する者がおらぬとは限らぬ。
帰りを待つ家族のためにも、わしは死ぬわけにはいかぬ。
Side:六角義賢
「抑えられなかったか」
「申し訳ありませぬ」
北伊勢で一揆が起きたか。蒲生下野守も苦労して動いておったのだがな。幸いなのは梅戸が軽々しく動いておらぬことか。
苦しいのは何処も同じだ。野分、冷害、長雨。尾張や美濃とてな。されど織田は数年前から米や雑穀を大量に貯め込んでおるようで、多少の被害では飢えることなどないらしい。
久遠の知恵? いや違うな。誰でも考えられる程度の当然のことだ。水害を防ぐために銭を払う賦役にて河川の堤を築き、遊水地も設けているという。やるべきことをやっておるだけであろう。
違うのは国人どもを黙らせ、織田がそれらの政を直接出来る織田の体制なのだ。言い換えれば誰でも思い付くことすら国人の顔色を窺わねば出来ぬ六角が愚かなのだ。
「下野守、如何する?」
「至急、願証寺と織田と北畠に使者を出すべきかと思いまする。ここで争うてはなりませぬ」
「それしかないか」
まあ織田はよい。筋を通せば戦など望むまい。下野守の進言通りに至急、使者を出すか。
「御屋形様、そろそろ三雲のこともお考えくだされ。此度のこと、三雲が北伊勢で随分と煽っておったのは明白。また三雲は管領殿の文を各地に届けております。このままでは三好殿も当家を疑いまするぞ」
北伊勢を如何するかと考えておると、周囲が静まり返る進言をしたのは平井加賀守であった。
「某も加賀守殿と同意見でございます。言葉にこそ出しておりませぬが、三好家では我が六角家が斯波家、織田家と共に三好家を排除するのではと疑心もある様子。三雲の動きを御屋形様の命かと疑っておることは明白でございます」
それに続いたのは、たびたび京の都にて三好家と天下の政について話しておる後藤但馬守か。
「あの男はそれほど織田が憎いのか」
織田が憎い。いや、滝川と望月か。そして両家を召し抱える久遠が憎いのであろう。とはいえ逆恨みなのだがな。わしも尾張に行って久遠殿と話してわかった。久遠殿は三雲のことなど気にも止めておらん。
三雲は明との交易を邪魔されたと騒いでおるらしいが、そもそも明は日ノ本との商いを認めておらん。倭寇と同じく違法な商いをしておるに過ぎん。誰が三雲の船を沈めたのか知らぬが、賊と変わらぬことをしておるのだ。なにがあってもおかしくはない。
「良かろう。三雲には北伊勢の一件が終わった後に責めを負わせる。北近江三郡でも動いておったな? そちらもまとめてしまうか」
「はっ」
いささか顔色が曇る者はおっても反対する者はおらぬか。恐らく父上はこのことを予期されておられたのであろう。北近江三郡もな。
三雲か。六角に残ったのが滝川八郎ではなくあの愚か者だとはな。尾張で見た滝川八郎の見事な姿を思い出すと羨ましいとさえ思う。茶の湯に和歌や蹴鞠。どれも見事にこなしておった。
滝川の身分では尾張に行って覚えたのであろうがな。それを感じさせぬ見事なものであった。
まあいい。三雲が教えてくれたのだ。このままではいかんと。せいぜい六角が変わるための礎となってもらおう。
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